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斎藤環さんとゲンロンカフェ(1/17)に出ます。

来年1/17に「文化は心をケアするのか」として、斎藤環さんと久しぶりにゲンロンカフェで対談します(たぶん同カフェでは、約3年半ぶり4回目)。もちろん、観覧・配信両方ありです。

11月末に私の『危機のいま古典をよむ』・『ボードゲームで社会が変わる』(共著)と、斎藤さんと東畑開人さんの対談集『臨床のフリコラージュ』がほぼ同時に出ていまして、いわば3冊分の刊行記念イベントになります。

どこに焦点をあてて議論するか、今から考えているところですが、やはり一つ扱いたいなと思っているのは「専門家依存」の問題です。

斎藤さん(精神科医)と東畑さん(臨床心理士)はそれぞれに「心の専門家」なわけですけど、刊行された共著を読むと、どうもお二人とも、心の治療において専門性ってほんとうに意味があったのかという問いを抱えているように見えるんですよね。たとえば斎藤さんの発言だと、

依存症臨床は、医者の専門性がほとんど生かされない領域なんです。治療よりも家族会や自助グループのほうが重要で、医者は身体管理だけしていればいい。「ふつうの相談」しかすることがないんですよね。
 (中 略)
発達障害、ひきこもり、依存症の臨床が、精緻な病因論、切れ味の良い薬物療法、洗練された治療プログラムといったもの抜きでも、「ふつうの相談」や「ふつうのケア」で十分に対応できるという領域を一気に拡張したように見えるのです。

『臨床のフリコラージュ』196-197頁
強調は引用者

一方で、ぼくは一貫して指摘してきましたけど、日本社会の全体としては2020年の新型コロナウイルス禍から、過剰な「専門家信仰」みたいなものが続いている。はっきり言ってそれは毎回失敗しているんですが、決して反省されず、ワイドショーの話題が移るごとに「新しい専門家」へと入れ替わり続けるだけ。

もし専門家が常に正しいなら、法的なロックダウンができなかった日本では世界最悪クラスの死者が出ていたはずで、逆にワクチンの副作用で亡くなる人は出なかったはずで、日本よりはるかに甚大な被害が出た欧米でさっさとマスクをみんな外しちゃうなんてことは起きなかったはずなんですよね。

コロナに続いたウクライナ戦争も同様です。開戦の当初は「NATOの東方拡大に問題があった」「ロシアに勝つのは難しい」といった議論は、プーチンを擁護するものに過ぎないとして、専門家のあいだでは強く忌避されていました。でもいま、現実はどうなっているでしょうか。

専門家でもまじめな人ほど、「専門性の限界」に自覚的であるはずなのに、社会の側が過剰に「問題をすべて解決してくれる専門家」を求めてしまう。裏を返せば、それは専門家以外の一般人――つまり自分たち自身は問題の解決にあたって、まったく無益なのだと。そうした自己卑下やニヒリズムに憑かれているのが、現在の日本ではないでしょうか。

そうした社会全体に及ぶ自己肯定感の低下を、どう手当てしてゆけるのか。そのヒントを精神医療の「専門家」と当事者双方の立場から、探る対談にもなればと思っています。多くの方にご来場・ご視聴いただければ幸いです。

P.S.
ネットで読める、以前(主に2020年春)の私と斎藤さんとの対談テキストはこちらから。2人で6作ずつ、メンタルヘルスを考える上で有益な映画を挙げていたりして、ちょっと珍しい企画だと思います。

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