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日記と珈琲_2月の裏側

からだの8割が「珈琲と映画と本」で出来ている医学生です。2月の裏側、日記をもとに書いたエッセイです。


ガラスが見たい。ガラスの透明さで気持ちが変になることが増えた。
山野アンダーソン陽子のガラスが見たい。彼女のガラスをつくるエッセイを読んで元気をもらったので、三部さんの写真を眺めていたいという衝動に身を任せて、展覧会が開かれる東京に行きたい。行って、すこし歪んだガラスの異質さに気付かされたい。
先日買って読んだ『MMA fragments』最新号の特集はガラスだった。素材に着眼点を置いた建築事務所の本、booknerdから取り寄せて、ページを捲る指が汗に濡れる。もちろん、山野アンダーソン陽子の展覧会の情報も掲載されていた。
ガラスは固体なのか、いや液体だろうか。人間の知覚可能な時間内に形状を微々と変化させる液体であると捉えることがあるようで、これは液体だ!と言い始めた人はすごいや。どうして固いものをそのまま固体と思ってくれなかったのだろうか。
世界で最も時間がかかる実験、それが液体か固体かを確かめる実験を思い出した。およそ100年間で9滴しか落ちないという実験。固体も液体も、粘性という概念では一見して判別が困ることがあるのだろう。固体に見えるのに、液体。そういう観測した方面次第でどっちとも取れる状態は、個人的にそそられる話題の一つではある。

アンビバレント、両価性。痩せたいけど痩せられない、買いたいけど買いたくない、話したいけど話したくない、相反する感情が同居することはよくあることだ。ある対象に対して肯定する自分と、否定する自分、そういう敵対した状況では人間の心の状態、選択の本当の価値に気付かされることがあって、考え事が好きなぼくにとっては絶好の機会である。曖昧さは好まれない。はっきり言って欲しい時に、いや、こういう意見もあるんだから、とどっちつかずのアンニュイさを表現してしまうのは、アンビバレントの否定的な側面の象徴だろうが、ぼくはここに未来の処世術を見つけたい。
迷うことは子どもっぽいだろうか。否、むしろ大人になってまだ価値が二つもある状態の方が揺れ動ける余白があり、楽しそうである。中立的な立場で境界線上を遊び、両側面を聞いて判断できるのが本当の大人というものだろう。自分の芯があるべきだと教わったけれども、ぼくにはそのために軸が二つ用意していても良いと思っている。それは右で左で、男で女で、地方で都心で、大人で子どもで。揺すられ、揺れながらぼくは考えを先に進めていきたい。でも、こういう態度を取り続けようとすると、イソップ童話の「コウモリ」の話を思い出す。

昔、地上の動物達は皆仲良しだったが、ある時から獣と鳥に分かれ、どちらが強いかで戦いになった。身体が小さい鳥はいつも劣勢で、その様子を見ていたずる賢い一羽のコウモリは、獣が有利になると獣たちの前に姿を現し、「私は全身に毛が生えているから、獣の仲間です」と言った。そして、鳥が有利になると鳥たちの前に姿を現し、「私は羽があるから、鳥の仲間です」と言った。

その後、鳥と獣が和解し戦争が終結する日がやってくる。しかし幾度もの背信行為を重ね、双方にいい顔をしたコウモリは、「お前のような卑怯者は二度と出てくるな」と皆に嫌われ仲間はずれにされてしまう。居場所のなくなったコウモリは、やがて暗い洞窟の中へ身を潜め、皆が寝静まった夜だけ飛ぶようになった。

wikipedia「鳥と獣とコウモリ」から引用

教訓をいくつか抽出できるだろうが、ぼくは卑怯に映ったコウモリの言動に注目してみたい。中立さを、良いとこ取りして道具にする、どちらにも良い顔して、積極的に歩み寄るための道具にしてはならない、と考える。もちろん、これも度が過ぎなければ、良い行動ではあると思う。辞書を引くと、“中立”は「対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。(デジタル大辞泉, 小学館より)」との記載があり、前者の意味を取れば、コウモリはどちらにも加担しているので中立的ではない。中立にある消極さ、中庸が肝心。真に自由な中立的な姿の全てに恋をする。それは思想や文化などの枠に対して付かず離れずの状態で、真の自由と言えそうだ。

だから、ぼくは石のような無機質なものになって世界を静かに眺めていたい。それは物言わず生きていける社会で、乏しい変化の中に美しさを見つけ、真に満たされる環境を理想としている。
そのためには石になる準備が必要である。石だ、と他者から認識される像を作り、干渉されても剛健さを保つ強い精神と身体を作る。そして、石が置かれる土(社会)を作る準備も必要になる。自分か他者の力を借りて耕し、整えたのち、石に触れるものを最小限にコントロールして安全を確保する。金とエネルギーの供給を放棄できるほどの財産を蓄えるか、自らの手を離れたシステムでそれらを生み出すことが出来れば、あとは眠ってコロコロ転がるだけである。
しかし、そんな世界を自ら創るなんて荒唐無稽。それでもそうありたいと欲するならば、今すぐ石になれないことを悟り考えに耽るか、あるいは虚構の世界で変身するほか方法は思いつかない。不条理な世界に身を埋め、文学の作用で己を石にして、現実でも石を守るための奴隷となれれば望みが叶ったも同然である。

雪の、去り際で何も言わないあたりに美しさを覚える。2月、気が付いたら雪が街から消えているのだ。銀世界をかたどった雪たちは、それがいずれ大地に溶け、川に流れて海へ消えることを知っているのだろうか。
ぼくは弘前で学業に努めながら、この身がいずれ雪のような転機を辿ることを知っている。大学でつくった同志たちと医業に勤めることで社会に溶け、人脈に流れて、世界の群衆へと消えていく。夢を語り合った温室が気付けぬ変化率で崩れていくのを感じる。名残惜しさから別れの言葉を濁すだろうが、いまのぼくには不恰好に映える。
消えた雪は再び雪になるだろう。だけど、ぼくらの一生に学生は一度しか現れない。人は置かれた場所で結晶になって燦々と輝いても、雪のように場所と役割が循環されることはないのだ。
いましか体験できないモラトリアムがある。その重大性に気付くのは、もう少し先の話になるだろう。

無機質さに変化を見つける喜びがある。

3月のエッセイは、4月になれば。

プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke

津軽の医学生. 98年生. 2021年 ACLのバリスタ資格を取得.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone XR

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