昭和の寿都町 Vol.1「戦争から復興する日本の田舎力」

画像1 こちらも昭和の香りいっぱいの修理工場の一枚。寿都はもちろん漁業と鉱山の町でしたから漁船の修理や鉱山で使う機械の修理は必須の職業だったと思います。写真から店から漂うあの機械油の臭いがする様な気がします。
画像2 こちらは先程の国道移転の為に移る前の寿都神社です。鳥居の向こうに長い階段が子供の頃の遊び場でした。お祭りには鳥居前にビッシリと屋台店が連なり、御輿(みこし)が石灯籠が灯った階段を一気に駆け上がる様は壮大そのものでした。 石灯籠、、覚えていますか ?きっと新車のおはらいに来た、ダットサンブルーバードかな、、、?
画像3 良い表情の父と娘の一枚、ALWAYS三丁目の夕日の中にも良く出てくる昭和37年に発売された「ダイハツのミゼット」が とてもノスタルジックです。まぁ、今の軽トラの元祖でしょう。
画像4 鰊が踊る寿都湾、寿都町字開進町から岩崎町付近。三角形型の屋根がついている一番高いモダンな建物は寿都測候所。当時は開進町にあったそうです 。獲っても獲ってもやって来るニシン達、やン衆たちは激しい労働から来る疲れと眠気を吹き飛ばすために「エンエレヤーサ、ドッコイショ」と互いに歌い声を出し気合を入れ、稼ぎまくったそうです。向こうに見える山並みと海岸線は今も変わってない感じが余計に親近感、寿都なんだなぁ〜と感じてしまいます。
画像5 午前中の列車は運休でしたが、もう一本の午後の列車は8108ボールドウィンに牽かれてやってきました。昭和41年黒松内、カラー加工にしてみました。機関車が引いているのは寿都鉱山から採掘された鉱石だと思います。機関車、動力機関は丸裸の動力マシーンです。それ自体でパワーを感じと思います。
画像6 昭和35年頃に行われた「ミス寿都コンテスト」の表彰式です。商店街で買い物をして投票券をもらい投票をしてミス寿都を決めます。そして旧津軽陣屋グラウンド(うちらの時代は町営グラウンドですが、いまの文化センターウイズコムの駐車場あたりです。)で表彰式をして栄冠に輝いたミス寿都はトラック(きっと、大漁の魚を運んだトラックでしょう。)の荷台に乗って町内パレードをしたそうです。これはぜひ、来年復活させなければいけませんネ 。年齢制限無しで、、😅
画像7 昭和28年には鹿部の丸本青山が寿都湾でブリの大漁に合い、3日間でドーンと1憶6千万円の漁獲があり、この時の収入で税務署所得番付北海道一になりました。 今の金額にすると、12億3千万円くらいになります、三日間で、、。 その当時の漁師の給料は38万円、今の金額にすると290万円位になりますから桁か違います。
画像8 こちらは同じ大磯町商店街ですが、右手に道銀が見えますから大体との場所か想像が付きます。商店街も拡幅によって立派になりましたがこの頃の賑わいは薄れてしまったのが現在です。何となく昭和です。
画像9 国道が移る前の旧道寿都町の入り口、六条町の一枚ですね。 その頃は必ず町内を抜けてるように 道は走ってました。移転して車は素通りするのが当たり前になったのは今の時代のバイパスの開通に 伴う弊害と同じですね。
画像10 浦賀にペリーが来た訳ではありません。寿都測候所から見たニシン全盛期の寿都湾。右手奥に点々とする小船は漁の真っ最中である。左手奥の汽船や帆船は粒買い(生ニシンの買い付け)に来ている。左手前には、ニシンを陸揚げする人たちが写っている。明治末~大正はじめ頃に撮影され、地元で絵葉書として発行された。(写真提供:佐藤嘉洋さん)を、カラーにして見ました。
画像11 寿都の水道設備が完成したのは昭和40年くらいなのかな、?自分が子供町営住宅に住んでましたがその頃は共同の水くみ場が ありました。ただ今でも記憶にありますが冬になるとその水を勺(シャク)ですくって飲むと小エビがビンビンとはねて飲みずらかった記憶があります。

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