「見られたい自分」で好かれたい
「イメージしてた人と違った」
少女漫画の一コマではなく、現実に言われる言葉である。
「イメージって?」
と、訊いてしまいたいのだが、そこはぐっと抑えて笑ってごまかす。
どうやら人は他人を認識する際、その人の直接的な言動の積み重ねというより、もっと曖昧な何かを根拠にしているらしい。
湧いた疑問符は大きすぎて、子どものときの自分は、世の中一般そういうものだと、考えを保留することにした。普通に生活しているつもりでも、当人の思いをよそに、勝手に作られていくイメージ。これにはただ、閉口した。
思春期はそれなりに悩んだが、結局、他人の視点を尊重するかどうか、というテーマに行き着き、あきらめざるを得なかった。
似たような悩みを抱えた人は少なくない。そんなことを思うのは、Instagram(インスタグラム)で、自分の生活の断片を切り取って見せる人たちがいるためだ。
世に素晴らしい景色は五萬とあるが、写真という形式が見事に切り取ることが出来るのは、レンズに映るものだけじゃなく、撮影者の「こう見られたい」、「こう見せたい」という願望だと思う。
ちょっとした撮影テクニックに始まり、今は簡単に扱える画像の加工アプリもある。完成度の高いそれらの作品を追いかけていると、自分のイメージを日々自分の手で創出し、決して他人の勝手にはさせまいとするような、そんな迫力さえ感じる。
誰かを好きになるきっかけは、その人の中身や性格、価値観といった、ある程度近しい関係でないと知ることのできない要素ではなく、おおむね外見や雑駁なイメージである、とも言われる。
イメージの ”誤認” で、自分の好かれたり、嫌われたりが決まるのは、なかなかシビアな現実である。だからこそ、そうした不利益を被らないように、当人による ”純正” イメージなるものが世に公開され、共有される意義があるのかもしれない。
そうして今、少なくとも人格権の一部であろう「個人のイメージ」も、いつか商標権や意匠権の仲間として、登録保護の対象になるのかもしれない。そんな予感さえする。
『快適な生活は、自身のイメージまでも、己のコントロール下に置くことで成立する』
主体が生きた個人であることは面白いが、紛れもなく、近代以降の管理主義の進化した一形態であることに感心する。
「インスタ映え」の熱狂が、いつの間にか、等身大の穏やかな日常を映すことに関心を向け始めたことは、個人のイメージのその次、現実の「生活圏」が対象になっているのだと思うと、興味が尽きない。
区切れないものを切り取る、画像の "魔" 力を借りて、目指す場所はどこなのか。引き続き追いかけていきたい。
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