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よんのばいすう 2022.12.8

今宵は月の出るそうな

今日は今年最後の満月。「コールド・ムーン」というそうです。
今はまだ出ていないけれど、お昼ごろ、既に満月になったようです。
そんなわけで、月の引力に引っ張られるように、ひさびさ書いてみました。虚実ないまぜですが、もちろんフィクションです。BGMには、ブラームスの間奏曲を選んでみました。

掌小説『冷たい月』

「お世話になりました」
瑠璃は椅子から立ち上がってそう言うと、深々と頭を下げた。

部長はあくまでも笑顔だ。座ったまま、笑顔だ。
「ここでの経験を糧に、これからも頑張ってください。応援していますよ」
広い会議室で、言葉が空しく共鳴する。瑠璃はもう一度頭を下げて、ドアを開け、そして閉めた。

食の情報誌『食の横道』が次号で突然休刊というお達しが出て以来、この二カ月間社内は大騒ぎだった。編集ルームの瑠璃にも寝耳に水だったけれど、半年前に入社した時点で月刊から隔月刊になっていたから、すでにざわつき始めていた。営業スタッフも経理担当も、この先自分たちがどうなってしまうのか気が気ではない。そもそも健康食品を扱うこの会社で、食の情報誌を有料で出そうとしたこと自体、コンセプトも採算も甘かった。書店置きではなく、クリニックや薬局に営業をかけて定期購読してもらうなんてもはや前時代的手法だ。そんな営業スタイルだと瑠璃が知ったのは、入社してからだったから、遅かれ早かれそんな日が来ることは薄々危惧していたけれど。その上、編集体制も脆弱だった。「塩分控えめ食品特集」なんてページを八ページ近く割いていながら、レイアウトも原稿も、チェックは甘々で、発行の後で、誌面の誤字脱字を見つけることも少なくなかった。小さい編集ルームにはスタッフが四人。外部から出向してくる編集長は、自分でも小さな編集プロダクションを切り盛りしながら、時々やってくるというていで、あとの三人のうち、デザイナーは一人だし、少し先輩の木村さんと私の二人であれほどサービス残業しても、営業マンが受けたクレーム処理に追われるのは日常茶飯事だった。その筋の業界では多角経営で鳴らしている社長にとっては、ただこの情報誌を名刺代わりにしたかっただけなのだろう。

そんなことだから、隔月刊になって売り上げは減少、経費や人件費も相変わらずかかるし、先細りは目に見えていた。嗚呼、せっかく編集者になりたくて転職したというのに、なんてこった。第一、編集長のテイタラクも目に余った。食文化への造詣もビジョンもなく、そもそも編集長としてのスキル不足のまま何とか誌面を埋めることだけに執着していた。要するに彼も自分の食い扶持をここで確保したかっただけなのだろう。そう言われたら、私だって同じだと瑠璃は思った。本体の健康食品が少しぐらい名を知られていることに安心し、内部の複雑な構造など知りもせず、ただ編集者を気取っていただけだったのかもしれない。

部長は本体側の人間。こんなお荷物の情報誌なんて、一刻も早く廃刊にして、本来の営業機能を取り戻したいと思っているのは明白だった。営業スタッフの何人かは本体に救ってもらうそうだが、定年近いスタッフや経理の悠子さんは退職するらしい。とはいえ、彼女には本体に異動が決まった年下彼氏との、むしろ前途明るい寿退社というオチがついていた。もちろん編集ルームは解体。会社都合の退職だから、雇用保険はすぐにもらえると、木村さんはサバサバした風だった。デザイナーの上条君も、既にITの小さな会社に拾ってもらうことが決まったらしい。もちろん編集長は自分の会社がある。何も決まっていないのは瑠璃だけだった。三十歳を過ぎ、ようやくたどり着いた希望の職も、半年ぽっちで終わってしまうとはなあ。欠員が理由だった編集スタッフ募集の求人選考を瑠璃が受けた時、ざっと二十人ぐらいの応募があったそうだ。その中でたった一人自分が選ばれた喜びもつかの間。まさにつかの間だ。欠員というのは表向きの理由で、編集スタッフが一人逃げたということは、あとになって木村さんから聞いた。すべては見通しの甘さかと、当初は社長への怒りも沸いていたけど、部長の笑顔を見て瑠璃はすべてを察した。本体もそのうち、左前になるのだろうと。あの時落とされた十九人の方が今は順風満帆だったりして。瑠璃は自分の机を片づけながら、ふとそう思った。

編集ルームの仕事は十一月末で切りがついていて、あとは残務整理だけだった。パソコンでお世話になった方々へ休刊のご挨拶メールを送り、取材関係のデータを取捨選択して、フォルダーに入れ直し部長のアドレスへ送ると作業は一応終わる。そのフォルダーを部長がクリックする日が来るとは思えないけれど…。いつ終わっても、十二月分の給料と本来なかった些少のボーナスと退職金代わりにあと二か月分の給料も出るそうだ。だったらできるだけ早くと思い、最後の出社をこの日にした。最後に出た『食の横道』の特集は「おめでたいおせち料理にもご用心」というタイトルがついている。おせち料理の献立のうんちくと「糖分が多い」ことへの医師からの警告、そして減塩レシピなど盛りだくさんで、写真も美味しそうに写っているし、集大成としては我ながらなかなかいいものができたと思っている。いや、意地でもいいものにしたかったのだ。クレームなんて、もう知ったこっちゃない。営業マンは年内いっぱいできるだけ売りさばいて、それで終わりだという。もろもろ、なんておめでたいのだろう。

編集長は月末以来、パタッと姿を見せなくなった。どうやら、年越しの金策に走っているという噂も流れた。あっちにはスタッフもいるのだろう。「どう? うちに来てやってみない?」と誘われもしたけど、尊敬できない上司のもとで仕事をするのはもう結構だ。部長への挨拶も終わり、机の上も中の引き出しもきれいさっぱりにしたら、窓の外はとっぷりと暗くなっていた。全員いると少し息苦しいほどの手狭な編集ルームも、一人では広々している。たった半年間だったけれど、ここでの経験は糧になるのかな。とりあえず、クリスマスは友人の住むパリにでも行こう。

会社の雑居ビルを出た。冷たい風がいきなり襟元に入り込むので、立ち止まってマフラーを首にしっかり巻き付けた。バッグの中の手袋を探しながら何となく空を見上げる。もうこの街に来ることもないと思うと淋しくなるかな…そんなことが頭をよぎり、一瞬で頭から消え去ったのは、ビルとビルの間から顔を出している真っ白な月を見つけたからだった。そうか、今日は満月だ。そして1年最後の満月。アメリカ先住民の言い伝えでは「コールド・ムーン」と呼ばれているらしい。冴え冴えと光り、信号で車の往来が止まったアスファルトさえ、鈍色に輝かせていた。こんな無機質で無感動で無価値なこの一瞬もすべてを赦すように、雑多なこの世を照らす月の美しさに、瑠璃は息をのんでいた。お月さまは誰の上にも等しく輝く。月がのぼっている方向が東だとしたら、私が帰るのは西の方。地下鉄までの道を月に見送られながら歩いていこう。月が西に沈んだら、今度はまた、東から太陽が昇ってくる。なんだか肌を刺す風すらが、背中を押してくれる気がして、瑠璃はにやけた口元をもとに戻すのに必死だった。

パリでは友人に案内され、クリスマスの風景とともにさまざまな文化人のお墓参りをした。敬虔なミサにも参列した。年が明けてそれをエッセイにまとめ、とある旅エッセイのコンテストに写真付きで応募した。半年後、作品が「優秀賞」に入ったとの連絡がきた。その表彰式と祝賀パーティで出会った人が夫だということは、瑠璃は人にはあまり話していない。



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