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よんのばいすう10-8 2021.10.8

寒露

10月8日〜21日は、二十四節気の「寒露」
秋の長雨が終わり、朝夕露が草木を濡らす頃と言われています。その分、空の澄んだ秋晴れの日が多いとか。

いやいや、今年の寒露はただただ暑い残暑そのもの💦
ま、それもあと少しだそうだけど。
そんなこんなで、こんな話を思いつきました。

BGMはお世話になっているこちらとともに…。


掌小説「思い出カフェ」

もう2年も経っていたのか。
マミオに別れを告げて、私が一人になってから。
カウンターには私だけ。安いビニールの回転椅子なんかじゃない。
深緑色したツイードのスツール。優しいひじかけ。
この椅子の座り心地を知ったら、もう他の席には座れない。
だから、淋しくなるとここに来るのだ。
店の名前は「銀のスプーン」
ここのコーヒーは、ドアを開ける前から薫りが店の前に漂っているほど馥郁としていて、おいしい。

ドアを開けるとカランコロンとドアチャイムが鳴る。
「いらっしゃい」とママの明るい声。ママといっても、私より少し年上かなと思うほど若々しくて、誰が来ても変わらない笑顔をお客に振りまく。だから、うっかり勘違いして通い詰めるおじさんもいるけれど、マスターの眼もあるし、店内は禁煙だし、基本はコーヒー好きな紳士といったところ。時々は場の空気を乱す女性のグループが大きな声で話してはガハハと笑う声が音楽もかき消してしまうけれど、そういう人たちに限って割と長居せずに出ていったりする。

私こそコーヒー一杯で粘る嫌なお客かもしれない。
時にはランチやお手製のケーキをいただくこともあるけれど、「いつもごめんなさい、長居しちゃって」と言うと、「いえいえ、いいんですよ。長居していただけるのがこの店だから」とやっぱり優しい言葉が返ってくるので、私も甘えてしまうのだ。
店の中には静かにジャズが流れていた。意外とシンプルな真っ白のカップとソーサー。そこに浮かぶ琥珀色の水面は、そのいい薫りとともにいつも遠い記憶を映し出してくれる。

あの頃はまだマミオも元気だった。ぷいと出ていったきり、何日も帰ってこなかったこともある。心配で心細くて。でも、ふとまた帰ってきて。
いつも考えているわけじゃない。しばらくはマミオの代わりもいらないと思った。
愛しても、また同じように失う日が来るなんて耐えられないもの。

ここのところずっと雨が降っていて、店の前を通ってもコーヒーの薫りは消えていた。
濡れた身体のままあのツイードを汚してしまうのも何だか憚られて、少し足が遠のいていたけれど、今朝は夕べの雨もやんで、ようやくいいお天気だ。
ふと、鼻の奥でコーヒーの薫りがしたような気がした。
普段着ですっぴんのまま、私は出かけていった。
アパートのドアを開けたら、ひんやりとした朝の空気が部屋の中に飛び込んできた。
ベランダの掃き出し窓のカーテンがふわぁっと揺れ動いたのを見て、慌てて窓を閉めに戻る。

「いらっしゃい」とママが迎えてくれた。いつもの変わらない笑顔。
そこで思い出したのだ。マミオのことを。
せっかく雨が上がったのに、今度は目から土砂降り。
急に私が泣き出したので、ママもびっくりする。
「どうしたの、どうしたの? とにかく、お座りくださいな」
幸いお店にはご主人のマスター以外、誰もいなかった。
私はしゃくりあげながらひとしきりママにマミオの話をした。
ママはいつものカップより大きめのマグカップにカフェオレを入れてくれる。
「そう、大変だったのね。急に思い出したのよね」
私は小さな子どものようにこくんと首を振った。もう2年もたっていたのに、私ったらマミオのことを考えないようにしていただけで、忘れていたわけではなかったのだ。ようやくそのことに気がついたのだった。

今日で本当にマミオにサヨナラできた気がする。
ありがとうマミオ。10年間一緒にいたんだもの、忘れるなんて土台無理だった。愛想なしの私だったけど、マミオはいつも私の心の中にいるよ。

私はママに、スマホの中に入れていたマミオの写真を見せる。
「本当にかわいい。三毛ちゃんだったのね」
抑えていたマミオの思い出話がどんどん溢れてきて、その分、心の雨はやんできた。
「カフェオレ、膜ができちゃう から、熱いうちに召し上がれ」とママ。
「はーい」と私。
まさか本当のママと娘みたいな会話をしている。

その「銀のスプーン」も、この夏、店じまいをした。
マスターがコロナに感染し、亡くなったのだ。あっという間の出来事だった。コーヒーを点てるのはマスターの専売特許。そのうち経営もうまくいかなくなって、緊急事態宣言の解除を待つこともなくママは閉店を決意した。
娘さんが一緒に住もうと言ってくれたそうだ。何のお返しもできないまま、私は最後の日にお店を訪ねた。

今、私の部屋にはあの座り心地のいい深緑色のスツールがある。
お店の備品をガレージセールよろしく売りに出していたものを譲ってもらったのだ。
高さが調節できるので、ダイニングテーブルにもぴったり合う。
白いカップ&ソーサー2客と、マグカップも2客。スツールも2人分。まるで小さな「銀のスプーン」だ。
掃き出し窓を開けて空を見上げる。空は高くて青い。
ピンポーンとチャイムが鳴る。
「はーい」と答え、私は玄関に向かった。
掃き出し窓のカーテンが、ふわぁっと、揺れた。

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