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21世紀に甦るウェーバー - その社会科学の慧眼と普遍的説得力に圧倒される

最近、Xで「ウェーバーが現代世界をグリップしている」と呟き続けている。どういう着想なのか具体的に説明したい。それは、ウェーバーの理論と命題が、否定できない真理として、目の前の現代世界を貫徹し支配しているという率直な認識と判断である。だが、その中身は、決してポジティブでハッピーな意味で言っているのではない。逆だ。実相としてはきわめてネガティブで厭わしい、理想とは全く逆の、野蛮と地獄と絶望の世界が出現していて、狂気のまま果てしない破壊と暴虐を拡大させている。そのカオスでカタストロフな世界を、知性と思念の力で解読し意味づけようとするとき、ウェーバーの言葉が屹立した啓示としてわれわれに迫ってくるという感覚だ。ウェーバーの学問的意義が明らかに大きくなっている。再びウェーバーを読み学んで考えないといけないときだ。そう確信を覚えて興奮する。

政治学がウェーバーの下に還っている。順番に論じよう。まず、暴力の問題がある。ウクライナ戦争が始まる前、開戦前夜の軍事的緊張が高まっていた2021年12月下旬、プーチンの行動を解説する論理として『職業としての政治』の一節が思い浮かび、ブログ記事の冒頭に提示した。

暴力と政治の関係を語ったウェーバーの有名な一般論だが、この古典的で非情な性格の学説に対して世間の評判は概してよくない。国連憲章が制定されて国際秩序が平和主義の原理の下で維持されてきた20世紀後半以降は、この理論は19世紀的な前時代の遺物という見方がされてきた。3年前に中公新書から出版された野口雅弘の『マックス・ウェーバー』を読むと、第四章の中に(P.107)「暴力をめぐるロールズとアーレント」と小見出しが付されて論述された部分があり、そこでアーレントによるウェーバー批判が短く紹介されている。曰く、

政治における暴力の契機を押し出すウェーバーの議論に、最も厳しい批判をしたのが、ハンナ・アーレントだった。政治的権力を暴力に還元するウェーバー的思考に対して彼女は (中略) 他者と一致して行為するところで生じるのがパワーであり、それは暴力と異なるというだけでなく、むしろ暴力の対極にあるという。(中略) アーレントだけでなく、ウェーバー以降、多くの政治理論家が暴力を中心に据える彼の理論を批判してきた。なかでもフェミニズムの理論家がこうした立場を明確にしているのは偶然ではない。

野口雅弘『マックス・ウェーバー』P.109-110

こうしたウェーバー暴力論への批判的視角が、戦後から現在までの支配的な空気であり、ウェーバー政治学を「時代遅れ」として排斥する論点だったように思われる。特に80年代以降、脱構築アカデミーの隆盛に拠って群れ、ウェーバーを「近代主義」の権化として無価値化するサラリーマン学者たちの常套句だった。だが、見よ。2024年4月の今日、ウクライナ戦争は2年を越えて続き、双方で死傷者は50万人以上に達している。ロシアとNATOが事実上激突する熾烈な戦争がウクライナの地で行われ、第三次世界大戦の入り口だと言われている。にもかかわらず、交渉で解決せよという声は出ない。EUや西側の政府指導者からだけでなく、西側のアカデミーの学者から出ない。皆、口を揃えて「戦闘でロシア軍を撃退せよ」「ウクライナに武器を送れ」と咆えている。

アーレント大好きな日本のリベラル諸学者が、「戦争継続」「撃ちてし止まん」「ロシア打倒」を絶叫して旗を振っている。「ウクライナ疲れ」の大衆気分を払拭し、戦争支援の声を鼓舞し高揚させるべく、血眼で戦争プロパガンダを吠え、世論を扇動しているのが、ロールズやアーレントを祀る神殿で奉職する神官(拝米俗流学者)たちに他ならない。そこには、アーレントの暴力忌避論の契機などどこにもない。暴力と攻撃あるのみであり、停戦や和平交渉の意義は完全に否定されている。ウクライナとNATOが正義だとする無謬のドグマが信奉され、正義の勝利のために無限の暴力の行使が正当化されている。そして、少しでもこの戦争の本質に社会科学的な懐疑と審問のメスを入れ、価値判断を相対化し、停戦を呼びかける者には、「陰謀論者」のレッテルが貼られ、口汚い罵倒と侮辱が浴びせられる。

さらに進めよう。ウェーバーを復活させた決定的な現実は、イスラエルによるパレスチナの大量虐殺だ。暴力。暴力。暴力。とめどない残虐で苛烈な暴力。しばき隊的な粗暴で野蛮で凄惨な暴力。殺戮は半年に及び、現在なお続いていて、ガザの人々は3万4000人殺害され、子どもの犠牲者が1万3000人に上っている(24.4.22時点)。イスラエルによるガザ大虐殺の前には、ただ精神が凍りつくのみで、何の言葉も発せられない。どんな理屈も口舌も出てこない。毎日毎日、無残に子どもが殺されている。これほど苛烈で残酷な悲劇をわれわれは目にしたことがあるだろうか。これまで経験したことがあるだろうか。逃げ場もなく母親や子どもたちが殺戮される映像が配信され拡散されながら、国連で何やら陳腐で空疎な討議がされている。私は何も言えず、ただ一世紀前のウェーバーの古典の言葉の前にうなだれ畏まるだけだ。真の正義の神が現れてパレスチナを救う奇跡を祈るだけだ。

エマニュエル・トッドは、ウクライナ戦争については正論を述べている。公平な知識人の態度を示している。だが、トッドからガザ大虐殺を非難する言説は聞こえない。誰からも聞こえない。誰も何も言わず、イスラエルの残虐な殺戮を許容し黙認している。リベラルだのデモクラシーだの、ロールズだのアーレントだの、他者への寛容だの、凡庸の悪の注視だの、レイシズム撲滅だの言ってアカデミーの司祭にのさばっている連中が、イスラエル批判の言挙げをしない。陣頭に立とうとしない。反ユダヤの差別がどうのと筋違いの欺瞞論法を持ち出し、イスラエルの蛮行を正当化している。イスラエル批判の声を狡猾に封殺している。ガザで昨年から起きている恐怖の出来事は、暴力の規模といい、残忍さといい、まさに広島・長崎への原爆投下に匹敵する。しかも、それがリアルタイムに中継されている。「きのこ雲の下」の惨劇は目の前にある。その現実に、一体、どんな言葉を与えればよいのか。

関連して、ウェーバーの学問の説得力が(私の中で)大きく張り出した理由は、ユダヤ教という問題である。ユダヤ教とキリスト教という問題であり、ユダヤ教とキリスト教とイスラム教という宗教の問題の台頭である。ウェーバーは、否、ウェーバーこそが、宗教の問題をせっせと研究して大系的労作を残していた。宗教を理解できないと世界は理解できない。イスラエルという悪魔を科学的に考察するに当たっては、ユダヤ教とは何かの基本的知識を持たないといけない。それは、旧約聖書を読んで内容を理解することを意味する。けれども、それはきわめて困難な作業が予想され、普通の日本人には難解すぎて歯が立たず到底無理だろう。然らば、何か定評ある学問的研究はないかと探すと、ウェーバーの『古代ユダヤ教』に行き当たるという次第になる。ヨーロッパ近代の知性からの、したがって、無論、そこにはバイアスの罠はあるのだけれど、宗教社会学の方法による旧約聖書の解読の所産だ。

他に誰がいて、どんな社会科学の著作があるだろうか。イスラエルとアメリカの悪魔的暴力の実体を把握し、批判的に了解しようと思えば、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み、『古代ユダヤ教』を読むのが早道で、そこから思考を巡らせることが日本の知識人の標準的通路だと思われる。参考になる日本語の研究書が多く見つかると期待される。ジャーナリズム的なレベルのイスラエル批判なら、あるいは国際政治上の知識なら、岡真理や伊勢崎賢治で十分に違いない。が、悪魔の本質を概念把握する力業を得るには、もっと思想的に深淵な領域に踏み込む必要がありそうだ。ここで、いきなり飛躍した議論に脱線して恐縮だが、ユダヤ教も、そしてカルヴィニズムに特徴的な初期プロテスタンティズムの原理主義も、凡俗な東アジア人の私の目には、ある種の精神病理を抱えた現象のように見えてならない。つまり狂気と総括できるのではないか。

それはともかく、ウェーバーは世界宗教の経済倫理に着目し、ヨーロッパ近代の独自性と普遍性を弁証するべく、儒教と道教、ヒンズー教と仏教、古代ユダヤ教と、次々と研究して成果を出して行った。単騎、無人の野を行く如く。今日、社会科学で現代世界を理解しようとする者は、同じ追跡を試みないといけない。例えば、インドという巨大な現実がある。インドは日毎に存在の影を大きくし、インドに無関心な者は現代世界を語れない。インドを理解しようと思えば、その思想と歴史を知る必要があり、ヒンズー教を理解しないといけない。どうやってヒンズー教に接近するか。いろいろな方法と通路があるが、ウェーバーの宗教社会学を参考にするという勉強も有効だろう。インドも中国と同様、いずれ欧米の世界支配に挑戦する勢力となるに違いない。その近未来の緊張感と関係性を想像するとき、近代ヨーロッパの知性がインドの思想性をどう捉えていたか知ることは意味がある。

そう考えると、ウェーバーの残した学問的遺産の意義と価値はとても大きい。誰もかなう者はいない。以上、ここまで、暴力の問題とユダヤ教(イスラエル)の問題とインドを例に挙げ、ウェーバーの説得力が極端に大きくなり、理論的関心対象の中でウェーバーに焦点を当てる度が高くなった事実を指摘した。それは決して、人類の希望の曙光を見い出し楽観的展望を導く認識ではない。繰り返すが、逆である。絶望と断念と怨怒を伴う身震いする確信のみが立ち上がる。だが、何より、私がウェーバーの前にうなだれて絶句してしまうのは、資本主義という根本問題についての観想と諦念が原因だ。それについては次に書きたい。どれほど、どれほど時間が経っても、まだ当面は、マルクスとウェーバーの時代が続くことを直観する。21世紀も、20世紀と同様に、マルクスとウェーバーの二本立ての世界が続いてゆく。人の心の中に宿り続け、教えを授け続ける。マルクスとウェーバーは不滅である。

還暦もとっくに過ぎた年になったが、そのことは断言したい。もっとウェーバーを熱心に読んで学問を習得しておけばよかったと後悔する。まるで、ウェーバーはヤハウェのようだ。岩波文庫のページを開く私に超越神のウェーバーが冷酷に言う。「おまえはいつまで経っても無知で甘ちゃんだな。ナイーブなボーイだな。勉強が足りないんだよ」。


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