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ようやく上がった「習近平退陣」の声 - 中国の新しい普遍的価値観

ようやく上海で「習近平やめろ」の声が上がった。待望久しい動きが起きた。中国には中国の民主主義があるはずだと、祈るような心境で何度も言ってきたが、その声が届いたような気分で感慨深い。この抗議行動が全国に広まって目的を射止めることを希望する。『中国民衆は抵抗闘争と政権交代を』と題した記事を上げたのが、今から1か月前の10月27日。勇敢な上海市民が公安警察の前で声を上げた。当局は制止できなかった。もう恐いものはない。全土の都市で民衆が街に出て同じデモの叫びを上げ、中南海を政治変革へと動かせばいい。こんな男を10年間も国家のトップに据えていたことが間違いなのだ。取り替えないといけない。

中国は世界第2位の経済大国である。「世界の工場」であり、最先端技術の研究開発でアメリカとしのぎを削る科学立国だ。特許出願件数は世界一。科学論文数でも世界一。そんな国のトップに、どうしてあのような無知で無能でアナクロな、毛沢東カルトと皇帝ママゴト遊戯しか能のない、バカ丸出しの愚鈍で傲慢な男を据えて喜んでいるのか。しかも10年間も。不釣り合いにも程がある。今回は歯に衣着せず言わせてもらう。世界第2位の経済大国なら、それに相応しい政治を持ち、それに相応しい知性と良識の指導者を戴いたらどうなのだ。習近平の10年独裁のため、中国の教育はどれほど歪められ、人格形成に毒が混入され、科学的知性の発育が傷つけられ、起業家精神が退行させられたか。

鄧小平の賜物

習近平は、改革開放以降の中国の歩みを台無しにしてしまった。鄧小平が再建し、胡錦涛の時代に得た成果を、ぶち壊しにして地に堕とした。それは工業技術力とか国内総生産とかの話ではない。世界からの中国に対するリスペクトの問題だ。世界の中での中国の地位と信頼の問題だ。鄧小平が進めた近代化は、例えば、経済の分野では元中国人民銀行総裁の周小川のセンスとセオリーに表出されていたし、外交の分野では、イラク戦争当時の国連大使の王光亜の教養と品性に体現されていた。そのトップに胡錦涛がいた。アジア・アフリカの途上国の政府幹部たちは、周小川や王光亜の言葉を聞き、態度を見て、アメリカの次に中国が来るのは十分妥当だなと思ったことだろう。

彼らにはクォリティとスマートさがあり、それは近代中国がずっと目指してきたものだった。魯迅まで遡り、陳独秀や李大釗が求めてきた悲願だった。近代的人格。近代化した中国。欧米標準の中で欧米日本と肩を並べ、それを追い越す中国。そこに踏み出したのが鄧小平で、その胆力と手腕によって見事に今日の基礎を作り上げた。現在の中国の達成はすべて鄧小平の政治の所産である。14億の全員が鄧小平の恩恵に被って人生を得ている。誰もそれを否定できない。一体、中国人と中国共産党は、この10年の習近平独裁をどう説明するのだろうか。何を血迷ってこんな男に独裁権力を与え、毛沢東時代に戻す戯れをやらせていたのだろう。中国の夢とは、まさに魯迅の夢なのだ。そうではないのか。

魯迅の夢、近代の理想

私は、この10年の習近平の中国は、中国人と中国共産党の劣化だと思う。栄華への驕慢と馴化であり、緊張の喪失であり、中国的な怠惰への本能的旋回だ。魯迅が最も忌み嫌う人間性と社会性が、習近平とその子分どもの関係世界にある。中国が損なったものは大きく、これから病状が発現するだろう。経済の数字が悪化するだろう。本当は、5年前から習近平と闘争して倒さなくてはいけなかった。習近平をトップにした迂闊と過誤を反省し、それを取り返す努力をしなくてはいけなかった。中国の人々に言いたいことは、これから本気で覚悟して政治に全力を注がないといけないということだ。政治を変えないといけない。習近平を総書記から退けて、胡錦涛的なリーダーに替えないといけない。

この30年以上、中国人はずっと経済に専心没頭してきた。大学の受験勉強と社会に出てからの栄達、ビジネスの成功と私生活の豊かさの獲得にハングリーに猛進してきた。他の対象に関心を向けず、個人も国家も一点集中で、嘗ての日本のエコノミックアニマルを模倣してきた。だが、今後は政治にエネルギーを向けないといけない。政治学(政治思想史)を研究して知識と考察を深め、理論を開発して実践しないといけない。政治と政治理論で世界をリードする主体、ホモポリティクスにならないといけない。今、その分野はアメリカとヨーロッパが独占している。そこに割り込んでシェアを奪わないといけない。中国で発信され著作された世界認識や政治理論を、世界(特にアジア・アフリカ)の人々が読むようなポジションを目指さないといけない。

西洋政治思想史の嫡流

そのための障害となるタブーや気後れは捨てないといけない。自由に言論することだ。古代アテナイや諸子百家の春秋戦国期のように。別に、マルクス・レーニンの階級独裁論の立場だからと言って、欧米のリベラル・デモクラシー論に引け目を感じる必要はない。政治思想史的には前者の方が後から誕生したもので、人類史的には新しく、パリ・コミューンの経験から構築された考え方だ。そこには、アテナイ滅亡の主因となる衆愚制(=民主制)を批判するプラトンの「哲人政治」論の前史があり、また、「一般意思」を体現し実行するルソーの「立法者」の概念がある。これはフランス革命の基軸の政治思想で、バブーフの革命独裁論も、ロベスピエールの「最高存在」も、ナポレオンも、その影響を受けての派生である。つまり、西洋政治思想史の嫡流の一つだ。

思想として決して筋目の悪いものではなく、欧州史の理想主義とロマンティシズムの伝統が脈打っている。が、それを、邪悪なスターリンと奸雄の毛沢東が悪魔の地獄世界に堕とし、汚辱に塗れさせ、鄧小平がアクロバティックな挑戦で救出を試み、名誉回復の半ばを得たというところだろうか。鄧小平の弟子たちがその任務を継承し、理想主義とリアリズムを弁証法的統一する政治を繫ぎ、世界を刮目させなければいけなかったのに、下手を打ち、習近平の堕落と劣化へと旋回してしまった。実に歴史は一進一退で、人間は不完全な生きもので、小林節や長谷部恭男のリベラル・デモクラシーの立憲主義論の説得力に頷いてしまう。フクヤマの『歴史の終わり』の不毛な結論に傾いてしまう。だが、人類はいつまでもデモクラシーをリベラルと固着させたままで済むだろうか。

中国のデモクラシー、21世紀のソシアル

デモクラシーをソシアルと接着させ、その結合を成功させる営みは、人類は未完であり、定着からはほど遠い。1970-80年代の日本が一つのモデルとして到達点を示していて、唯一成功した社会主義例だという評価がある。その方面に再度情熱を傾ける有能な人間(カリスマ)が出現してもいいし、新自由主義の矛盾たる格差と気候変動に悩む21世紀の世界は、それを待っているように私は思う。デモクラシーをピープルと結びつける20世紀の実験はディストピアの失敗で終わった。けれども、デモクラシーをソシアルと接着させる政治は模索の途上にある。リベラル・デモクラシーが人類の政治の最終形態ではなく、終着駅でないことを、21世紀のアジア人が証明するべきで、さしあたってその使命を帯びているが中国だ。

夜の北京の路上で白紙を掲げてデモをしていた若者たち。彼らは、おそらく高等教育を受けたホワイトカラーだが、たぶん、日本の同世代の同じ職業階層の若者たちよりも年収・所得が上で、そしてまた、日本の同世代・同階層の若者たちよりも英語とITのスキルが上で、すなわち知性水準が上の者たちだろう。中国の高校の社会科でどのような教育がされているか知りたくて、ネット検索で調べて、選択科目の経済の内容が出ているのを見たが、日本では大学の教養課程で学ぶ中身が並んでいた。中国は大学受験が厳しい。中国の高校生は1日16時間も勉強している。それだけ多くの中身が詰め込まれるわけで、自ずと高度な知識が下に降りてくるのだろう。そうやって足切りをしているのに違いない。日本の「ゆとり教育」と逆の方向性である。

新しい 普遍的価値観 のデザイン

中国の大学進学率は日本と同じだ。あの貧しかった中国が、普通に親が子どもを大学にやれる国になった。鄧小平のおかげである。そしておそらく、大学教育の中身も日本より充実していて、日本よりも学生によく学問させていると思われる。向上心と勉学心の旺盛な中国の大学生は真面目に勉強するだろう。その中国の高校生は、日本の倫理社会に相当する科目で何を習っているのだろうか。また、大学で政治学を学ぶ際はどんな講義を受けているのだろうと気になる。もし、ソクラテス、プラトン、アリストテレスを学び、ロック、ルソー、ヘーゲル、マルクスを学んでいるとすれば、私が上に書いた内容は常識のはずである。そして、ベーシックな西洋政治思想史の知識で、現代中国の社会主義政体論について歴史的に対象化(相対化)できるはずだ。

同時にまた、アメリカと西側が宗教を鼓吹するように唱えるリベラル・デモクラシーについても、それを相対化する視角を持てるはずだ。恐れることはない。恐れてはいけない。学問こそ神である。習近平が神なのではない。アメリカが神なのではない。修めた学問は生かさないといけない。自分の人生のため、社会のために生かさないといけない。中国が、経済でアメリカに追いつき追い越すときは、中国が世界のリーダーとして期待され責任を果たすときである。当然、そこには価値観が必要となる。今のアメリカと西側がリベラル・デモクラシーを咆哮しているような、世界に提示して支持と納得を調達する普遍的価値観が要る。それは何で、その中身は何なのか、中国のインテリの若者にはそれを考えてもらいたいし、案出してもらいたい。政治思想史の想像力でデザインしてもらいたい。

天安門肖像画についての提案

それがあれば、この「白紙革命」の理論武装になるだろう。中国の若者には、1989年の天安門事件で犠牲になった者たちのことを思ってもらいたい。みな、自分のためではなく、中国のために真剣に行動し、中国を理想の国にしようとして蹶起し挺身した。その犠牲の上に今の中国の繁栄がある。彼らの犠牲が土台となっている。政治をするということは、いつの時代も身を危険に晒すということで、勇気を必要とすることである。このままでは中国は破滅することを考えてもらいたい理由を日本人として言おう。このまま習近平体制を続ければ、PRCはアメリカによって軍事的に崩壊させられる。対応できない。そのリアルな予測も、少し頭のいい中国人なら容易に想像できるだろう。戦いはすでに始まっているのに、中国は座視したまま何の有効な対抗策も打ててない。

習近平が愚鈍で無能だからだ。アメリカとの戦いに負けた後は、よくて日本と同じ運命が待っている。この稿の最後に、習近平後の中国について提案を述べたい。共産党の規約に個人崇拝の禁止と世襲の制限を明記することだ。また、1989年の天安門事件の総括も必要だし、香港を一国二制の原状に戻すことも必要である。南シナ海については前に具体論を書いた。それと、天安門の肖像画について、毛沢東を外して鄧小平に置き換えることを提案したい。①鄧小平を5年間、その次の党大会の後、②周恩来に替えて5年間、その次に、③劉少奇・王光美に替えて5年間、その次に、④孫文・宋慶齢に替えて5年間、⑤その次に、魯迅に替えて5年間、その次に、⑥陳独秀・李大釗に替えて5年間、その次に、⑦五四運動で抗議行動する学生たちに替えて5年間。

⑧その次に、抗日解放の紅軍兵士たちに替えて5年間、その次に、⑨毛沢東に替えて5年間、その次に、⑩89年の天安門広場で集会する学生たちに替えて5年間。そして、50年ぶりに①鄧小平に戻し、同じ50年サイクルの継起交換を繰り返す。このPRC国家の象徴たる肖像画の新しい措置に見合った、「新しい普遍的価値観」のセオリーを開発することを期待したい。


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