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物事を極端に単純化するヤベー奴

シンプル・イズ・ベスト。

そんな言葉がある。
物事は複雑でないほうがいい、単純な方が良いのだと。

特に日本においてはこの傾向は強い。
ゴテゴテとした装飾よりも一輪挿しの花を愛し、
雄弁に言葉数多く何かを語るよりも、沈黙を愛する。
多いよりも少ないことが、複雑なものよりも単純なものが愛される。

だが、昨今においては
異様なまでに物事を単純化して、最終的な結論やゴールがあまりにも短絡的に、どうかすると浅慮・軽率・考えなし、と呼ばれるであろうレベルまで含めて「良いこと」として捉えて推奨される風潮が垣間見える。
コレは実にヤベーのである。

ヤベー話その1

例によって発端はtwitterだが、その日もtwitterでは日常茶飯事のように
誰かと誰かが揉めていた。たしかその時の火種は「転売ヤーありかなしか」みたいなものだったと記憶している。
いつもがそうであるように、転売をしている転売ヤー側は自分たちの商売が世の中の為になっているものであり、ソレに対して転売否定派は、転売の害を訴える…というような内容であった。
テーマとは異なるので、転売自体の理非についてはここでは論じないが、最終的にたしか「転売ヤーを防止するために、どこかの店舗が新たな転売対策を打ち出した」というような話が出てきて、
「さらば転売ヤー」「ざまぁ」「涙目」などとリプライが付いていたのを覚えている。
だが、ここで転売擁護側から出てきたツイートが、心底恐ろしかった。

「結局こうやって俺たちの生活(≒転売行為)を邪魔するんだよな」
「俺らの人生邪魔するってことは、お前らの人生も邪魔される覚悟ある?」
「お前らの人生も潰して良いんだよな?」

たしかそんな内容であった。

今あらためて当該のツイートを探してみたが、アカウントごと消されてしまったのか、ツイ消しされたのか見つけることはできなかった。
だが、当時の記憶が正しければ、このツイートに対しては無論批判も多かった一方で、ある一定数の賛同を得ていた覚えがある。

ここで僕が感じた恐ろしさこそ、冒頭にも述べた
内容を極端に単純化することで、その話の内容の詳細を無視した乱暴な結論に持ち込もうし、あまつさえ一定数の人はそこに違和感を感じない」点である。

今回の例で言えば
話の主題は「転売行為が良いか悪いか」であり、少なくとも対策を講じた店舗側は「転売行為を良いこととは思ってない」からこそ対策をしたわけだ。

それに対して転売側が「余計なことして邪魔をしやがって」と怒りを覚えるところまでは分かる。だが、その「転売の邪魔」を大胆にも「自分たちの人生への攻撃・妨害・迷惑」として捉え、
他人の人生に対して攻撃を加えるということは、お前らも俺たちの攻撃で人生を邪魔されて構わないということだな?」と、捉えようによっては犯行予告とも取られることを平然と放言してしまう、
そして、それに対して「たしかに、他人の人生邪魔すんなら自分の人生邪魔されても文句言えないっすよね」というような、賛意のリプライが付くことに、心底からの恐ろしさを感じたものである。

この理論がまかり通るのであれば、
例えば、当人は恋い慕っているが相手からは全く無視されていることや、自分たちが何らかの不法行為を行っていることを第三者に見咎められたこと、なども全て
自分がしたこと/したいことを邪魔したってことは、俺らの人生を妨げてますよね?ならあなたの人生も攻撃していいってことですよね?」という論理も通ってしまうことになる。
およそ「自分の意に沿わないことをされた」場合には、どんな状況であっても「それは自分の人生への攻撃」だと捉えて、復讐して当然だ、とする実に都合の良い使い勝手の良い主張ではないだろうか。

無論、前述のツイートも、売り言葉に買い言葉…あるいは頭に血が上った勢いで…ということもあるかもしれない。冷静になってみればそんな理論は通るわけがなく、落ち着いたあとで恥ずかしくなってツイートを消した、ということならば安心もできる。

だが昨今の、特にネットを中心とした文化体系や、SNS等の内容を見ていると、これらの内容を、本当に心から信奉している人間というのも存在しているのではないかと思えてならない。次の例で説明しよう。

ヤベー話その2

もう一つの例は、今度は家庭内での夫婦間の関係についてだった。
twitterだかブログだか2chまとめだったか忘れたが、内容としては
「旦那の束縛が激しくて、外に遊びに行くなとか命令する」
「たまに遊びに出かけても連絡が来たりして鬱陶しい」
「娘とかも旦那の味方になってきて、家に居場所がない」
というようなものであった。

こちらもたしかに、ここの内容だけを見ると、
奥さんがひたすらに被害者であり、ヒドい旦那だ、と言えそうである。
だが、その後の流れとして出てきたのは
「奥さんは専業主婦だが家事をせず遊びに行ってしまう」
「そのため旦那さんは仕事から帰宅してから、掃除・洗濯・子どもたちへの食事の準備などを一手に引き受けている」
「出かけると帰ってこないこともあるため、決められた時間までに連絡がなければ、帰宅の有無について確認のために連絡をしている」
「結果、子どもはお父さんには懐くが、お母さんには懐いていない」
というような結論だった。

だがこの話も、先の例と同様、極度に内容を短絡化することで、おかしな結論を導く人々というのが出現していた。端的に言うと
「束縛する時点で旦那がおかしい。外に行くなとか人権侵害だしDV」
「親でありパートナーなんだから、旦那は子どもに奥さんの信頼回復しないとダメでしょ。子どもがママの悪口とか文句言ったなら叱らないとダメ。」
「てか相手に文句言うとか何様??自分は完璧なの??」

などなど。

いや!!勿論!!!家庭内と夫婦間の事情である、もしかしたら文章からは見えないお互いのやり取りとか、お互いの気持ちの面での行き違いとか、あるいはその家事をしなくなったのは元はと言えば旦那さんのせいで…などなど考えられる可能性、という点ではいくらでもあるので、
奥さんが悪いか旦那さんが悪いのかという点については一切論じないが、

それでも
『外出を制限するのは束縛であり、束縛するのはDVなのでダメ』とか
『子どもが親に文句言うのは良くないことだから注意しないとダメ』とか
『文句を言うことは悪いことだからダメ』といったような
個別の状況とか事情みたいなものを一切考慮せずにただただ原理原則の話だけを振り回す、あまりにも話の内容を単純化した状態にしか捉えられない、という人がこれだけの数いるのだ、というのが驚きであり、同時に恐怖でもあった。

無論この件についても、もしかしたら「無理筋でもいいから奥さん側を養護したいから」とか「とにかく旦那の悪口を言いたかった」などなど、考えられる要素はあるし、一概に「全員が全員、短絡的にしか物事を考えてない」などと断言するのは、それこそ短慮というものかもしれないが、
少なくとも今般のネット等のやり取りを見ていると、この手の「あまりにも内容を読み込まずに短絡的に結論を出そうとする」人々というのが増えている気がしていて、今回こうしてnoteに記した次第である。

なぜ短絡化は進んだのか?

ここまで、主に2つの例をあげて「物事を過度に短絡化する人々」について話をしてきた。
僕が見たのはどちらもネット上での事例だったが、もしかすると現実世界においても、この過度な短絡化は進んでいるかもしれない。
では、その原因は一体何なのか。考えられる要因を3つにまとめてみた。

・文章力の低下

原因の1つとして考えられるのが、拙noteでもたびたび上げている、文章力の低下、とりわけ、文章の読解力の低下である。

下記の設問に正しく回答できたのは、中学生でわずかに38%であった、というデータもSNSやネットメディア等では幾度も話題に上がってきた。

「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。」 

この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢のうちから1つ選びなさい。
「Alexandraの愛称は(   )である。」
(1)Alex (2)Alexander (3)男性 (4)女性」

僕自身も、仕事をするうえで「何でこんなに話が通じないんだろう…」と思わされる人と遭遇する率は年々増えてきたように思っている
(この件についてはいずれまた別noteで書く予定である。)

ともあれ、例に上げた2つのお話のように、人間関係や内容が複雑に(個人的にはそれほど複雑でもないと思うが)絡み合っている内容だと、正しく内容を読み取ることができず、結果として情報の細かなディテールを全て削ぎ落として、理解できる部分だけつまみ食いして読む…といった読み方になる結果、情報を過度に単純化させて捉えることに繋がるのではないか、というのが要因の1つ目である。

・超高度情報化社会とその欠点

2点目は、現在のこの超高度情報化社会それ自体が持つ問題点である。
24時間365日、誰もが気軽に多くの情報に触れることができるようになった情報化社会の発展は、同時に「どの情報が正しいか」「どの情報が重要なのか」という、情報の取捨選択や情報リテラシーといった新たな課題を生み出した。人々は常に数多押し寄せる情報の中からどれが正しく、どれが間違っていて、どれが嘘で本当化を判断しなくてはいけなくなった。
だが実際問題、常に正しい情報だけを選別し続けるのには限界がある。このコロナ禍での正しい情報収集の難しさを考えていただければ、それがどれだけ困難なことかお分かりいただけるかと思う。

結果、情報収集や習得に疲れた人から「信じたいもの」「受け入れやすい話」などに飛び付いていくこととなる。同時に、日々大量に浴びせかけられる情報に対しての感性も鈍化していき、与えられる情報に対して、精査や読み取りなどを放棄し、ただなんとなく、上辺だけをなぞるようにして、何かを「理解した気になる」というのも現在のトレンドではないだろうか。

ちょうど、「5分で分かる○○」というような書籍や、youtube等のメディアでも「ざっくり世界史や日本史が分かるようになるセミナー」といったコンテンツが人気になるのが、まさにその証左と言える。

それこそ、過度に単純化した言い方をするならば「身近に溢れる情報が膨大になった結果、誰もがお手軽を求めて軽薄なバカになりつつある」ことが、超高度情報化社会における功罪の「罪」の部分である。

・日本特有の「短絡化・単純化」への価値の高さ

そして最後の要因が、「短いこと」「単純なこと」こそを善とする価値観にある。諸外国の文化については詳しくないが、こと日本においては単純化・短絡化を好む傾向が強いのではないだろうか。
建設的結論を見出すための、双方による意見や議論の応酬と言ったものは好まれず、年長者やリーダーの「鶴の一声」による決定が好まれるほか、
「一言で企画を説明して」「本当に理解してたら一言で説明できるよ」「自分を一言で表して」など、とにかく「短く端的に何かを表すこと」に対して異様なまでに価値を見出す風土であると言える。

その結果として、「細かなニュアンスや関連する間接的な要素、取り巻く状況、運」などの決定や判断に絡む重要な要素が抜け落ちたとしても、
「とにかく端的に」「分かりやすく」が求められるのは、もしかすると今の日本が「そんな長い話を聞くことにもう疲れてしまってる人が多い」のではなかろうか。

先に上げたyoutubeでの講義動画などが時折「話を単純化しすぎている」「分かりやすくするために内容を歪曲している」などと批判が出るにも関わらず、未だ人気を保っているのも、その国民性やニーズに即している結果ではないだろうか。
敢えて短絡化して乱暴に表すならば、「わかりやすさと短さを最優先にした結果、正確性や真実はどうでもいい」という、
手軽さを求めた結果、ついに反知性主義にまで行き着いた末路かもしれない。

終わりに

だいぶ長文になってしまったのでマトメに入るが、
昨今ネットを中心として「異様に話の内容を短絡化して受け取る」あるいは「短絡化した内容しか読み取れない」人々というのが増えている。
その人々は思考や思慮も短絡化・単純化されているため、結論が乱暴であったり、どうかすると誤った判断を下すことがある。
もしかすると昔からそういう層はいて、ネット時代になったことで、見える化、が進んだだけなのかもしれない。
だが、この情報の溢れた社会においては、情報収集やリテラシーなどに対して真摯に、真面目に取り組まなければ、誰しもが"面倒な判断や熟慮"を避けるようになり、短絡的で乱暴な結論に飛び付いてしまう危険性がある。
今回のnoteを通して、今一度、自戒の念を込めて、留意していきたい。

まあ、こんな5000文字を超える文章を最後まで読み進めたあなたであれば、その心配はないかもしれない。途中で読むのが面倒になり飛ばしてしまった人は、是非とも反省してもう一度、最初から読み直していただきたい。

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