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ANGERSWING#28

最近、気分転換にコナンの映画を3本観た。
「黒鉄の魚影」「緋色の弾丸」「ゼロの執行人」の3本。

タイトルの付け方が中2病心をくすぐる感じがする。
本当は3本も観るつもりなかったのだが、最初に見た「黒鉄の魚影」が面白くて、今更ながら蘭とコナンと灰原の関係性にグッとくるものもあって、思わず立て続けに見てしまった。

でもさすがに3本でお腹いっぱいになったので、文章を書き始めた。
最初は気にならなかったのだが、観ているうちに段々と気になってくることが出てきたからだ。

批判とかでは全くなく、アニメという特性上の話だと思うのだが、やはり喋っていない人の細かい挙動であったり、かなり感情的に喋っている人、別に感情的に喋っていなくても良いのだけど、生理的な身体の動きを表現しきれていないのが気になった。

自分では制御しきれない人間の生理的な動きをアニメで表現するためには膨大な時間と手間をかけないと成立しないのだろうし、そもそもそれを表現したところで観客はそれを観にきているわけではないので、不必要な観点なのかもしれない。

アニメ中でも必要最低限な、というか説明的な心理描写的動作は数多く描かれてはいる。例えば握り拳をアップで映して、それをギュッと力強く握り直すみたいな瞬間。
シナリオ上、必要なモメントではそういうことが描かれているので、登場人物たちの心理状況は少なからず追えるし、それ以上は必要ないということなのだろうと思う。

ただやはり引きの映像になった時の挙動があまりにも寂しすぎる。
表情を細かく映しているわけでもないので、本当に繋ぎのシーンとして引きの映像が使われることがあったのだけど、歩き方の個性とかもあまり表現しきれていないというか。歩き方なんて表現するものじゃないのかもしれないけど、漂う佇まいに欠けるというか。

じゃあ実写の人間を改めてそこに配置した時に変化が生まれるかと言われたら、そこまでの大差は生まれないのかもしれないけど、あまりにも何もない瞬間が映されている感じがしてしまった、アニメーションだとね。

そうなった時に生身の人間が演じる意味みたいなものが出てくる気がするのだけど、アニメーションに勝る表現を獲得するには、一瞬たりとも嘘をつかない、ちゃんとそこに居続けることしかないような気がしている。
アニメと違って、全ての瞬間を見られている。だからこそ、そこに真実が宿っていなければ、そもそも見せ物にならない。

あとは「説明的にならない」ってのが求められていることのような気がする。
でも、それでも何かが漂うという状態にまで自分を高める。様々な作業を経てね。

それが生身の人間にできることだと思う。

なのでそろそろ作業をしていきますヨ。

<日本劇団協議会主催>
日本の演劇人を育てるプロジェクト
新進劇団育成公演

劇団Q+
『ANGERSWING /
アンガーズウイング・アンガースウィング』
ー家族の庭、その香りは秘密をささやくー

脚本=弓月玲 原案・演出=柳本順也

◎日程
2024年7月3日(水)〜 7月7日(日)

【公演スケジュール】
7/3(水)W 19時~
7/4(木)S 19時~
7/5(金)W 14時~/S 19時~
7/6(土)S 13時~/W 18時~
7/7(日)W 12時30分~/S 16時30分~

【チケット】
前売一般 = 4,500円
当日一般 = 5,000円
U22= 3,000円

◎劇場
下北沢 駅前劇場

⋱チケット発売⋰
2024 年 5月 1日(水)開始

https://www.gekidan-q.com/

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