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期待しない。独りにもならない。

名選手が名コーチになるとは限らないというのがプロ野球界の通説である。

もちろん名選手でも教えるのが上手な方もいらっしゃる。
さらに言えば、教えることが下手でも人身掌握術に優れていたり、作戦の組み立てが上手だったりすれば名コーチにはなれる。

名選手なのに名コーチになれないひとの例をあげるとすれば、“自分の尺度を他者に押し付けてしまうひと”だったりする。

選手時代、名選手になるために必死に努力をして、成長して、結果を出して、名声を手に入れていく。
その努力がそのひとにとっての成功体験である。

だからコーチになったとき、同じような努力を選手に求めてしまう。同じような努力をすれば活躍できると信じて疑わないのだ。

努力をさせるという行為は選手に期待を寄せる行為でもあるし、悪意はない。むしろ期待でしかない。
しかし選手がその期待に応えられなかったとき、コーチは大きな落胆をすることになってしまう。
その落胆によって、さらに選手を追い込むようなことをしてしまうかもしれない。
選手もまた、その落胆を見て、力んでしまい空回りということにもなりかねない。

コーチ自身の技術論を押し付けてしまうことは、選手の独自性と自由さを奪う行為にもなりかねない。

ぼくが名選手であり、名コーチであるという話ではない。
ただぼくはひとに期待しすぎてしまう癖がある。

「A案をやってみたい」

というぼくのことばに対して

「じゃあA+B案でやってみよう」

という答えをぼくは期待してしまう。
でも社会はそう甘くない。

たまたまぼくの身の回りにいるひと達が、そういう思考のできるひと達であるというだけだ。
本当にぼくは恵まれているし、そういうひと達と関わってきたことは財産でしかない。

社会では往々にして

「A案じゃ成立しないんですよねえ」

という答えで会話が停止してしまうことがよくある。
そうなったときに、どうにかしてA+A'案あるいはB案を自分自身で作り出す。
相手を変えようとするのではなくて、自分が変わるということをいち早く選択できるようになりたい。そっちの方が早いから。

煮詰まってくるとその選択がとても難しくなってくる。
そんなときにもっと自分をコントロールできる力が欲しい。

今、言語化したことを今から意識してみる。
やってみるまで行かずとも意識する。
それだけで居様が変わると信じている。

自分自身を信じている。

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