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手話から読み解く聲の形

最初に

題名にもあります通りこの記事の中では2016年に公開された「聲の形」の手話に注目して私なりに分析したいと思います。
聴者はどうしても手話を観ると「手話だ!」だけで情報が止まってしまいがちですよね。仕方ないです、手話だって立派な言語のひとつですから、初見で注視したって意味を掬い取るのは難しいでしょう。知らない言語で話しかけられて「わからない!」としか思えないのと同じです。ですが、映画聲の形の中ではそんな我々にも手話表現が分かるように丁寧に作られています。流して観ずに一緒に拾っていきましょう。
ネタばれなんてしないわけないし皆観てる前提で書きます。まぁ、観てない人でも楽しめるように善処しますね。
手話や物語の分析に関しては私の妄想なので絶対の正解じゃないです!こんな楽しみ方してみました!って感覚でよしなに〜

またこの記事の中で引用している映画・聲の形の画像のすべては
(c)大今良時・講談社/聲の形製作委員会/BD
より引用しています。

なぜ聲の形の手話は魅力的なのか

物語上、手話にそれ以上の情報があるというのは言うまでもないですが、実は聲の形の手話はものすごくこだわって作られています。それが解るのがエンドロール。この場面

聲の形エンドロール

全国ろうあ連盟に協力いただいている、手話監修がついている。注目すべきはそこだけじゃありません。手話モデルです。なんと聲の形のキャラクターの手話にはモデルになった方々がいます。生まれつきろうの女の子、将也ほどの年齢で手話の勉強を始めた男の子。それを制作会社である京都アニメーションがものすごく緻密に再現しているため各々の手話がとても繊細でいて魅力的に作られています。それがよくわかる場面もあるのでこの後紹介します。(発音モデルの方もいらっしゃいますね)

聲の形における手話とは

聲の形はそれが印象的なシーン故、いじめや障害を深く言及されがちですが、この作品の主題は「気持ちを伝えることの難しさ」です。そして手話はその気持ちを伝えるための「聲の形」の一つであります。
ですが、実は硝子本人は手話を使って(家族をのぞいた)周りの人間と会話しようとしませんでした。何故ならば、硝子が強く望んでいるのは「ふつう」になること。つまり聴覚障害を強く連想させるような手話を使わずに会話用のノートを使って周りのみんなと会話することを望んでいます。また、同じ理由で自分だけのために皆に手話を学んでもらうのは忍びない感情がありました。この二シーンからわかりますね。

自己紹介
自己紹介2

自己紹介では硝子は口角は綺麗に上がっていて、目が見えなくとも希望に満ち溢れている表情をしていることがわかります。

先生がクラスメイトに手話を勧める
その時の硝子

つぎに、きこえの教室の先生が手話をクラスメイトに進める場面です。硝子としては不本意、先生は純粋な善意、でも普通になりたい(波風立てたくない)そのすべてが相まって硝子は先ほどのようなきれいな笑顔を見せることができません。汗の漫符もそれを強調しています。実際、クラスメイトである植野は手話の勉強を拒否します。
このような関係性から聲の形における手話は

One of themになりたい硝子にとっては押し付けたくないもの。
それ以外の者にとってはOne of themではなく「硝子」とつながる為のツール。
というモノであるということがわかります。

本編

忘れる・覚える

硝子と将也はどちらも手話を学びましたし、同じ自殺という道を選びかけましたし、同年齢ということから二人三脚のような関係性かと思われがちですが、実は硝子と将也は「合わせ鏡」のように対をなす関係性です。これ覚えておいてください。下の画像のシーンでも暗喩されていますね。

将也入る、硝子出る


さて、将也が硝子に会いに行くシーンで「忘れる・覚える」の手話が登場します。

硝子のノートを持って「忘れ物」
手話を「覚えた」

手話で「忘れる」はこめかみの横から握った拳を開きながら上げる動きをします。そして「覚える」はそれの「反対」の動きをします。分析を開始しましょう。
ノートは硝子にとってどんな意味をもっているのでしょうか?ノートは上記したノートです。そして、将也は硝子へのちょっかいの一環としてノートに落書きをしたりノートを学校の池の中に投げ捨てたりしました。(硝子はその後池の中に入って探していました。学校の中にある池なので浅いです、広くないです。見つけられないはずがありません。硝子は池の中にノートを見つけましたが拾い上げませんでした。その後将也がそれを拾い上げました。)
先ほども言及しましたが硝子はノートを通じてクラスメイトと仲良くなりたかった。つまり、ノートは硝子が望んだが諦めた忘れた理想のみんなとの繋がり(とその日々)を意味しています。そして、先ほども言いました手話とは硝子とつながるツールです。上記で言及した二人の関係性から
このシーンは、将也が「硝子が諦めた繋がり」を片手に、「硝子との繋がり」をもう片手に会いに来た。

それを台詞を使って言語化せずに、キャラの手話の演技とメタファーを使うことによって観客のこころにダイレクトに届けることに成功しています。

すげぇ

将也の手話に驚く硝子

「忘れ物」と手話で表現する将也や上記画像の硝子の驚いて丸くなった目や汗の漫符もそれを強調させています。

結弦が将也に自分は硝子の彼氏ではなくて妹だとカミングアウトするシーンです。このシーンの魅力は何と言っても手話を使ったキャラの心情表現と解像度を深めることです。
このシーンまでの流れを説明します。結弦は物心着いてからずっと硝子のために生きてきました。そのため小学生時代硝子にちょっかいをだした将也を目の敵にしていて、将也をあの手この手で突き放そうとしました。自分が硝子の彼氏だと噓をつくのもその一つです。ですが「硝子のために」という将也の気持ちを聞いて考えを改めました。それでこのシーンです。

妹の手話は手の甲を見せて小指だけ立てて下に下げます。

(えっと、「女」の形で)
(下にクイだから)
(え?妹⁉)

将也の心の中を代弁してみました(笑)。同じ形で上に上げると姉という手話になることから、ほとんどの聴者はロジカルにこの手話を覚えます。逆に言うと上記の将也のように手話を観てから意味を理解するのに慣れるまでは時間がかかってしまいます。この何気ない演技ひとつで将也はまだ手話を勉強してはいるもののビギナーであることがわかります。

次に、結弦です。結弦は聴者なので聴者に対して手話で自分の気持ちを表現することには、「思考を伝える」以外の、理由があります。以下の通りです。
・こっぱずかしい
結弦ちゃんは中学三年生です。今まで欺いてた人間に対して心のを開いて「妹だよ」とカミングアウトすることに照れがあったのでしょう。かわいいやつめ
・仲間意識の表れ
劇中でも手話ができる人間はマイノリティです。そして結弦も将也も硝子のために手話を覚えました。結弦にとって「お前は仲間だ」という意識が溢れた結果手話で妹と表現したのでしょう。

さ原・さはら

聴者・ろう者に限らず、マジョリティ・マイノリティの関係性について映画の中で言及されています。それがよくわかるのが以下のシーンです。

登場人物である佐原の名前を表す手話表現は劇中に2回出てきています。

一度目が小学生の頃に佐原自身が硝子に「佐原」の手話表現を教わるシーン

原 将也「へ?」

一回目では『さ・原』2回目では『さ・は・ら』と表しています。

二度目が将也に「佐原」と伝えるシーン。注目すべきは二回目一枚目です。先ほども言及しましたが将也は手話を勉強したとはいえビギナーです。
(将也の目線になっている2枚目、3枚目が必死に硝子の手を追っていることもそれを印象付けています。(画像なのでお見せできないのが残念ですが、ここでは硝子の手を追うようにカメラが揺れています))
初心者である将也は「原」の手話表現を理解できませんでした。そこで硝子は「原」を「は」「ら」と表現し直しました。それだけでなく硝子の手話は将也に対してはとてもゆっくり大きく表現しています。「は」「ら」と丁寧に表現したこと以外にも硝子の思いやりはあります。それは表現の速度です。手話上級者の素早い指文字に初心者は読み取りが追い付かないことがしばしばあります。(経験者は語る)。それも見越して硝子は丁寧に丁寧に表現しています。
対して小さい頃から手話を使っていて上級者の結弦に対しては早く表現していることがあります。(映画にも同様のシーンはありますがスピード感が伝わりづらいので漫画より引用します。)

(c)大今良時・講談社/https://los-endos.hatenablog.com/entry/20160819/1471617024より引用

我々はどうしても、「将也が硝子のために手話を勉強したんだ!」で思考停止してしまいますが、それだけではありません。実は将也だけでなく硝子も寄り添っていたことがわかります。

これは、物語の中だけでなくてこの世の中にも言えることですね。マジョリティの気まぐれな自己満足にマイノリティが振り回されてしまうという現状はしばしばあります。まぁ、それてしまうので例は出しませんが、そんな事象は累々とありますね。
この場合は将也も必死に手話を勉強していますが、「マジョリティの無責任な承認欲求に振り回されてしまうマイノリティ」の可能性を示唆し、物語のための物語でなく、現実味のある話として描くことで我々はこの物語により心を惹かれます。

おばあちゃん

西宮姉妹の祖母の葬式のシーン。
結弦と硝子が池を囲んで蝶を眺めるシーンです。

葬式場で飛ぶ蝶
それを結弦と共有する硝子

まず、映画の中で蝶はしばしば死者のメタファーとして扱われます。この場合も、状況から鑑みて蝶は死んでしまったおばあちゃんのメタファーと考えるのが自然でしょう。そして、モンシロチョウは「悪い知らせ」と「加護」の象徴として語られます。悪い知らせとはおばあちゃんの死で、加護はおばあちゃんは死んでしまったけど残したものが西宮姉妹を守るということを意味しています。
でも、それだけではありません。二枚目の硝子の手に注目してください。動画ではこの手を羽ばたく蝶のようにクイクイとひっかけるように揺らしています。えぇ、ご想像の通り「おばあちゃん」の手話表現です。
結弦ももちろんそれを知っています。結弦はおばあちゃんを強く慕っていました。そんな結弦を元気づけるために近くにいた蝶をおばあちゃんになぞらえて励ます硝子の優しさが伺えますね。

そんなのしらないよって?

しそジュース飲みたい、ばぁちゃんの

映画序盤で登場している手話なんですね。セリフもしそジュース飲みたいだけで意図は伝わりますが、「ばぁちゃんの」と付け加えることで観客にもおばぁちゃんの手話表現がわかり硝子の優しさが響くつくりになっています。

またね・またね・またね・ありがとう

聲の形の中でも物語として特に重要な手話がいくつかあります、その一つが「またね」です。週に一回会う硝子と将也にとって「またね」はまた会うためのおまじないでした。実際、また会って良いのか迷っていたときの将也は硝子のまたねに強く心動かされます。それがわかるのが次のシーンです

硝子にまたねと言われた次の日

それまで将也は周りの目が怖くて人の顔を見ることはもちろん、前を見て歩くことさえできませんでした。そんな将也ですが、またねと言われた次の日はそれに夢中になるがあまり周りに指をさされても、ひそひそ噂話をされても全く気付きません。それほど嬉しかったようですね。

「またね」は作中でも何度も何度も登場します。

またね
またね
またね

最後の一枚、将也がまたね表現しました。いつもならそれにまたねと返す硝子ですが

ありがとう

ありがとうと返します。そしてこの直後、硝子は自宅マンションから飛び降ります。
自殺をする人間というのは死ぬ理由を探すのではなく、死なない理由を消します。
何故かというと、死ぬ理由など累々とあり、それらが自分に死でしか逃れられないほどの苦痛を与えているからです。それが詰まったのがこのカットです。先程言及した通り「またね」はまた会うためのおまじないです。硝子にとって将也にまたねと言ったあとに会わずに死ぬのは嫌だったのでしょう。またねと返さずにありがとうと返すことで、おまじないを解き、自分のために尽力してくれた将也に感謝の意を示して気兼ねなく死ぬ準備を完了させました。
なんとも切ないシーンですね(;_;)

私・君・友だち

これも「またね」と同様物語を通して何度も登場する大切な手話表現になります。友達の手話表現は手と手を取り合った状況を示しています。

私・君・友だち
私・君・友だち
私・君・友だち

一枚目は硝子は友達と声を出しているのに対して2枚目は、「さ」「は」「ら」と同様に声なしで手をカメラが追っています。これはこの手話表現が二人の間で「聲の形」として成立していることを示しています。そして、3枚目。思い出してください、硝子と将也は合わせ鏡のように対を成す存在です。あの時友達になろうと言われていた将也が今度は友達になろうと硝子に言っています。

友だち
友だち

そして、将也が回復したあと、この二人は再開を果たし友だちの、手の形を作ります。ここで重要なのは直接触れているということです。この物語の中では直接触れるということはとても深い意味があります。小学生時代の喧嘩、佐原にこれから変われる、友達になろう。どの場面も心の底からの思いが通じた瞬間です。山田尚子監督も「つながりたい、死なないために」という言葉を制作中に掲げられていました。
お互いを繋げるための手話、繋がった様子の手話表現である友達、それを二人で手と手を取りながら作る。将也の直前の「君に生きるのを手伝ってほしい」というセリフからも、これから将也と硝子が強く深い繋がりになることが暗示されていますね。それに硝子は「約束」と表現します。約束は声での説明はありませんでしたが、指切りげんまんに似ていることと、ぎゅっと握られたその手からそう感じさせられます。

約束

バカ

最後です!
将也が回復したあと、学校へみんなに会いに行くシーンです。これは、将也と硝子ではなく。植野と硝子の物語です。植野は小学生の頃、きこえの教室の先生に手話の勉強を提案された際、それを拒否しています。また、硝子が飛び降りた際はそれによって将也が怪我をしたことに腹を立て、硝子のことをボッコボコにしています。ですが、将也入院中に硝子からのアクションがあり少し気が変わったようです。

硝子(ごめんなさい)
植野「また謝った!」

???
見ての通り手話しさをしたときの硝子は口を真一文字に閉じており喋っていません。
植野が初めて硝子の手話に返事をしました。

「ば」(か)
「か」(か)

植野が硝子に手話を使って話しかけました。何度も言いますが手話は硝子と繋がるためのツールです。硝子を嫌いと宣言までした植野ですが(嫌いなのは変わってませんが)それでも、硝子とつながるために手話を勉強したようです。

ですが!
私が観る限り、これは正しい表現ができていません。「ば」は「は」の表現をしたまま右に動かすのですが、右に動かす動作が抜けています。ですが硝子、読唇と状況から「ばか」と言われていることに気づき、怒るかと思いきや

植野の手を右にずらす

ただしく、「バカ」と文字通り手を取って訂正しています。

自分でもやって見せる
そして
この顔である

対面でバカとはっきり言われて怒ってもおかしくない場面ですが、硝子は律儀に訂正して、自分でもやってみせて、あろうことか嬉しくて笑ってしまいます。バカといわれることなどどうでも良いと思えるくらいに硝子にとって手話を覚えて自分と会話してくれるのはうれしいそうです。これも、小学生時代ではみんなに話しかけても無視されたり、なぁなぁに躱されたりしたことが辛かったことに由来してそうですね。そして上記した通り直接手と手で触れあうことはこの作品の中で大きな意味があります。硝子と植野の関係性の変化の兆しといえるでしょう。

最後に

長々と語ってしまいました、最後までお付き合いいただきありがとうございました。ですが、これは聲の形の手話のみに注目した分析です。しかも手話に関しても語りたいことはまだあります。
色から読み解く、各々の行動原理を考える、メタファーから読み解く、音から読み解く、構造的に考える、原作改変を考える、山田尚子から考える。
もっともっと語りたいことあります!しかもこれらが複雑に絡み合っています。聲の形の造詣が体系的になればなるほどおもしろいです。
気が向けば書きます。ありがとうございました。

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