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神の名において

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 Twitterを眺めていたら、「科学的に証明された最強のBGM」というツイートが流れてきた。いわゆる「作業中」にかけるためのBGM。緊張度が何%、心拍数が何%低下……云々と書いてある。一瞬これは広告かと目を疑ったが、どうやら書いた人物は医者(少なくとも自称では)のようだ。「科学的根拠を大切にして」いるらしい。
 「科学的に証明された最強の」なんて大袈裟な修飾語をつけられると、かえって胡散臭さがプンプンしてくる。少なくとも、私はそんな音楽は聴きたくない。みなさんは「科学的に証明された神の存在」なるものをどう思われるかだろうか。信じるか信じないかは勝手だが、それは神を信じているのか、科学を信じているのか。
 明治期に西洋科学がわが国を席巻したとき、それに対して日本人がとった態度は、ほとんど〝信仰〟に近かったのではないかと思う。「神を信じる」と述べるにとどまるか、「科学という名の神を信じる」と付け加えるか、両者の間にさしたる違いはない。
 昨今AIが脚光を浴びているが、これも言ってみればひとつの〝信仰〟である。なぜなら、世間の人々がAIにおけるインプットとアウトプットの中間プロセスを理解しているとは思えないからである。別に馬鹿にしているのではない。科学者だって、エンジンの仕組みを説明できなくても自動車には乗る。自分で説明できない癖に安心していられるのは、安全だと信じているからに他ならない。それを信仰と呼んで何が悪いのか。「安全神話」という言葉もあったではないか。
 「AIによるナントカ診断」というのも、よく見かけるようになった。だが、私は易者の占いほどにも信じていない。科学者は客観性というものを強調するが、考えているのは自分の頭だということを、しばしば忘れる。同様に、診断するのは機械だとしても、それを正しいかどうか判断できるのは人間だけだということを、われわれはしょっちゅう忘れている。
 わかりやすい例え話をしよう。「100%正しい診断と治療ができるAI」ができたとする。みなさんは、その機械に診てもらいたいと思うか。じつは、「正しいかどうか」を判断しているのは、つねに人間である。AIにそうした価値判断はできない。実際に100%正しかったとしても、それは「結果的に」「いまのところ」そうだったというだけのことである。AIそのものは「正しさ」を 1ミリたりとも保証しない。
 舶来品の西欧科学を礼讃した昔の人を笑うことはできない。AIに自分の健康を預けるかどうか、それはAIに対するあなたの信仰度合いである。神は現代科学によって殺されたが、それは科学が神の玉座についたということに他ならない。そして今度は、その玉座にAIが座ろうとしている。「昔の人はよくAIなんて信じていたなあ。」百年後の人類はそう感嘆するかもしれない。
(二〇二一年三月)


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