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他所のおじさん

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 Twitterである高校生が、「なんで会ったこともない他所のおじさんに黙祷しなきゃいけないんですか」と書いていて、思わず笑ってしまった。確かに、「会ったこともない他所のおじさん」に違いない。
 大学生の頃に所属していた同好会で、学年は私より上だが後から入ってきた女子学生の名前が、その「おじさん」と同姓であった。加えて、顔立ちもどことなく髣髴とさせるところがあって、自己紹介の際に恐る恐る訊いてみると、やはり後胤であらせられるということがわかった。すると、飲み会の席でOBまでが彼女のところへやって来て、「弊社をお引き立てのほど、何卒よろしく……」とやるのである。そういうわけだから、私にとってはあながち「他所のおじさん」というわけでもないのだが、じゃあ黙祷するかと訊かれると、「それは私の勝手だ」と言うしかない。
 弔慰というものは本来「心から」するものであって、人から言われてやるものではない。閣議で了解までして文書で通達し「よろしく取り計らって」もらう性質のものではなかろう。第一、そんな弔慰に意味があるのか。
 毎年誰それが靖国神社に公式参拝したといってニュースになる。「公式」がダメならというので、わざわざ「私人として」参拝するという方までいる。あれが気に入らない。
 政治のイヤなところは、あらゆる行為に政治的な色が付いてしまうことである。官房長官は「強制するものではない」と述べたが、そういうことが問題なのではない。従うにせよ従わないにせよ、そして本人がどういうつもりであるにせよ、やってもやらなくてもその行為自体が、相手に対して、あるいは周囲に対して、ある意味を生じてしまう。
 アベノマスクがそうであった。着けても着けなくても、そのこと自体が政治的な意味を帯びてしまう。本人の政治的な信条とはまったく関係がない。だから、マスクについてはわが家は「届いていない」ということでお願いしたい。弔慰についても、どうしても通達を出すというなら、教育現場としては「そのような通達は届いていない」と言ってはどうか。
(二〇二〇年十月)


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