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「改定」花山天皇の即位についてまとめた

01-29
花山天皇即位後の新嘗祭での五節について、『小右記』からピックアップしました。内容も少し変更しています。

「光る君へ」で第四話で花山天皇が円融天皇から受禅されるので、その時の記録から即位までの流れを古記録なんかから抜粋してみた。だけど、実資さん、五節舞について記載していないから五節舞は省いています。
あと、小右記はこれ日記か?というほどに長文なので、あたし目線で面白そうな部分だけ。(実資さんの記録の付け方などは、”『小右記』と王朝時代、編集 倉本 一宏, 加藤 友康, 小倉 慈司”を参照してください)

元ネタ:天皇皇族実録、小右記、西宮記
タイトル画像は Wikipedia 袞冕十二章から

受禅 永観2年 8月27日

『践祚部類鈔』
上卿 右大臣 兼家
内弁 権大納言右大将 済時
宣命使 中納言民部卿 文範
釼璽使 (或伝)
内侍二人
 掌侍 妃順子、
 執釼璽 源平子(被献御袍笏等)、典侍一名 有障不参

『西宮記』 17 臨時五 行幸
着黄櫨染御衣、入内裏。或云、此日猶着太子衣乗鳳輦云々。

『日本紀略』 後編八 花山天皇
先帝(円融)二六、今帝(花山)十七。
詔、令太政大臣藤原朝臣、(頼忠)、百官惣己万機関白、云々
即夕方補蔵人頭以下、又以先皇(円融)第一敦仁親王為皇太子、

即位 永観2年 10月10日

『日本紀略』 後編八 花山天皇
天皇即位於大極殿、宣命如常。

『天祚禮祇職掌録』 花山天皇
即位、大極殿
奉行
 官方 右大弁大江齊光
 蔵人方、蔵人左小弁藤原惟成
内弁 左大臣源朝臣雅信
外弁 左近大将藤原朝光卿 右近大将藤原済時、中納言民部卿藤原文範卿、
左侍従、弾正尹章明親王、刑部卿従四位上茂親王、少納言従五位上藤原信義、
右侍従 従三位右近中将(--三位中将だ!--)藤原道隆卿、
侍従 従四位下源佐藝、少納言代左馬助従五位上藤原邦明、
典儀、少納言従五位上源元忠、
大将代、
褰帳、左 慶子女王(弾正尹章明王女)、
   右 明子女王(前上総太守、盛明親王女)

→おおっ「褰帳」ってことはこの二人のどちらかを…(以下自主規制)

『小右記』 永観2年 10月10日
ポイントだけ
近衛少将着金甲、本府■悉焼亡。仍用兵庫寮位■、上着甲、不着下襲云々
馬道東方為御在所、南面立布障子(引布可謂障子歟)---省略---左大弁為輔奉仕礼服御装束、--省略--、右大臣「良久(やや、ひさしく)」不着幡座(着礼服)--省略--、被仰云、玉冠甚重、已可気上、仍可脱御冠、--省略--、右[右近]中将道隆、親王各申障由、仍今日所被召仰成、侍従佐藝忽申無玉冠之由、仍召右衛門佐武永冠給之、--後略--

→近衛府火災で着用する儀式用の甲(よろい)がないから兵庫寮から借りてきたようです。
またこのとおり、花山天皇、少しわがままな性格だったのかも。実資の日記にも「玉冠って重い。だるいからとってもいいかな?」という感じで話している。まぁ、何時も着用している冠よりはるかにじゃらじゃら飾りがついているからうざったい気持ちはわかる。とくに、前に玉暖簾のようにぶら下がっているし、うざったい感じもわからなくはない。。。

五節舞姫の決定 永観2年 10月14日

献五節人々、守式不可過差之由、---省略---、仰左大将 藤宰相 景舒朝臣 了。
→この3人が五節舞姫を用意することになった。さて大変。

五節舞姫の内裏参入 永観2年 11月18日(子)

殿上五節参入、景舒女也、自余不参。

→藤原景舒(かげのぶ)の娘が五節舞姫になって内裏に来た、という記事。だけど、この景舒さん、かなり前に「伊賀守景舒」として小右記に出てくる。伊賀国は小国なので「守」(長官クラス)でも六位どまり。そんなに裕福な国ではなさそうなので大変だったなぁ、と思う。

帳台試 永観2年11月19日(丑)

昨今内御物忌之所五節参入、有常寧殿試事、主上御常寧殿、密々御覧、依御物忌被修諷誦、御出之事太以強(はなはだあながちににる?)也。如何。

→天皇、物忌だけど常寧殿に「密々」見に行っている。でもお経も挙げてもらっている。五節って神様関連の行事だけど、仏教系の祈祷もやってもらっているのが面白い。
「御出之事太以強也」はよくわからん。けど「よくやるねぇ、やばいよねぇー」って感じと思っている。

御前試 永観2年11月20日(寅)

晩景参内、今夜五節御前試也。御装束如例、亥終五節参上、於畏 〇缺文歟

→天皇の前で舞を披露する日。しかし小右記本文は欠損しているのでとりあえず、この日に御前試が行われたしかわからん。
終ったのは亥刻(大体21時ごろ)。

新嘗祭 永観2年 11月21日(卯)

即位後だが、8月に即位したので大嘗祭は翌年に繰り越された。
なので、通常の新嘗祭が挙行された。

『日本紀略』
永観二年十一月二十一日、新嘗祭

『小右記』 永観2年 11月21日
ポイントだけ
大嘗祭以前出御之例、指而無所見、仍不出御---省略---

今夜主上密々御常寧殿辺、未聞之事也、如何々々。

→即位後、新嘗祭(毎年行う祭儀)には新天皇は参加するんだっけか? ということで調べたらその事例がなかったので、不参加となっている。

だけど、花山天皇、「密々」に見に行っちゃってる。
見に行っちゃってる。
見に行っちゃってる。
ほんとうに前例やぶりで、実資、プンプン。

豊明節会 永観2年11月22日(辰)

今明内御物忌、---省略---、太相府被候御後、五節不参入以前、被退出、---省略---、時々降雪、---省略---、仍被行雨儀、---省略---、五節参上、亥四刻、余禁闖入、五節未出之間還御、この間舞姫退出、心身不宜、---省略---

→天皇またしても物忌。15か所の寺に祈祷を依頼している。そして当日は雪が降っているので「雨儀」となった。五節舞姫の登場は23時ぐらいから。この後ごたごたがあって、実資、体調不良で帰った。
なおあとから参加者名簿とか儀式の内容を聴いた、と書いてある。

改元 永観3年 4月27日

『小右記』
ポイントだけ
今日有改元、寛和、皇太后宮太夫重信奏詔書草、---省略---

大嘗祭関連 寛和元年 11月21日~24日

大嘗祭の御禊 寛和元年 10月25日

『小右記』
--省略--、左大臣(雅信)参入、令奏不堪騎馬之由、--省略--、今節下役可勤仕者、右府奏云、左右随仰、唯取手・手振等具忽難相具、為之如何者、仰云、以左府具可奉仕者、--省略--、殿女御供奉御車(糸毛)庇差車、従人皆着麴塵

→左大臣は騎馬ができないので、右大臣に代わってくれ、と言っている。
右大臣 兼家に相談し、「まぁ交代しても問題ないですが、御付きの人員(取手・手振等)を用意することがすぐにできない。どうする?」って言ってきたので左大臣(左府)の御付きの人を使ってください、と回答をした。とのこと。
機転が利く実資! ナイスジョブ!

御禊はある意味、国家パレードだから、御付きの人にもいろいろ準備するのが大変だった観たい。
最後の「殿女御供奉」にはなんと麴塵を着た従者がいたことが記載されているので、太字にした。だけど、この麴塵は「色名」だし従者が袍を着用することはないので、萌木色の麻の水干や褐衣だと勝手に思っています。

大嘗会 寛和元年 11月21日

『日本紀略』
於大極殿大嘗会、依豊楽院破壊也
→豊楽殿が壊れてるから、大極殿で大嘗祭する、ってあるけど。
「豊楽殿破壊」は天元3年の内裏焼亡のときかな?
→調べてない。→調べとこ。

『小右記』
--省略--、到廻立殿、彼殿御装束未了、仍良久乍乗輿御也、--省略--、余候御剱、権中納言公任候御璽・御釼・璽筥等、内侍所持候、是先例也、--省略--、公卿以下執神具共之、已及寅刻、甚違例也、--省略--、

→実資、プンプン。
まず、儀式の場所が設置未完了だったし、花山天皇は輿の上でややひさしく待たされるし、悠紀殿の儀式がおして寅の刻までかかって「はなはだ違例なり」って言ってるし。実資だけの力ではどうにもならなかったようで、イライラ感あふれてる。たぶん、日記を書く時もイライラしてたと思うなぁ。
公任さん、権中納言で天皇そばで儀式に参加していたのね。

辰日節会 寛和元年 11月22日

『小右記』
--省略--、住古於豊楽殿被行、而此度於大極殿被行、依豊楽殿破壊歟、又無東西樓、丑時御大極殿、--省略--、左大臣不献御挿頭、是失誤也、--省略--、左大臣称病、譲内弁於六条大納言(源重信)--省略--、小忌参議二人外公卿不着青摺、行事公卿着位袍、是例也云々、辰時許事了、--省略--

→この日も実資、プンプン。
源雅信が天皇に冠に指すための花を差し出し忘れた。それを「これ失誤なり!!」って書いちゃってる。そのあと、雅信さん病気になって儀式の役割を弟の重信にお願いしているし。この御挿頭の件、翌日の日記でも出てくる。結構、ねちっこい実資。

巳日節会 寛和元年 11月23日

『小右記』
亥時御悠紀帳、其儀一同昨日、又如式、左大臣不参、大納言為光内弁事、--省略--、寅刻許還御本殿、

午日節会 寛和元年 11月24日

降雪、--省略--、寅刻許還子安殿、

ハイ注目 超絶時間外労働!

『小右記』から時間を引っ張ってきました。かなり長時間で深夜勤務
この間、束帯は常に着用だし、天皇がいるからちょっと緊張するし、何か役割を担ってるならばその動作で頭いっぱい。宴会って言っても儀式の一環だから今のような飲み会とは異なるので、もー参加したくなくなっちゃうかも。
でも参加しないと下級官人(四位以下)は人事考課表に記録されちゃうし。。つらそうな世界。

大嘗祭当日(2つの神殿でご飯を神様に備えて食べる儀式)

夕方に参内して、別の儀式(叙位記入眼→叙位記完成)をしたのち
丑時(大体23時ごろ) 悠紀殿の儀式開始
寅時(大体03時ごろ) 悠紀殿の儀式完了
寅時(大体03時ごろ) 主基殿の儀式開始
辰時(大体07時ごろ) 主基殿の儀式完了

辰日節会(宴会1日目)

丑刻(大体23時ごろ) 宴会開始
辰時(大体07時ごろ) 宴会終了

巳日節会(宴会2日目)

亥刻(大体21時ごろ) 宴会開始
寅時(大体03時ごろ) 宴会終了

午日節会(舞楽など。最終日)

雪降ってる日。
開始時間記載なしだけど、前日と同じならば亥時?
寅時(大体03時ごろ) 宴会終了

おわり。

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