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【エッセイ】東京にて

もう桜は咲いているというのに寒さはまだこの街に居座っている。

南国で育った私は、いまだに東京の寒さに慣れることができない。去年の暮れに不甲斐なく失恋した折に再び吸い始めた煙草をポケットから取り出し、自分の吐息なのか煙草の煙なのか分からない白いモヤを空へと吐き出す。

東京の空は窮屈だ。でも、それなりに綺麗な表情を見せることもある。そんなことに気づくまでに長い時間がかかった。上京したての頃、東京という街は自分の知らない「他所の街」で、無表情に急く大勢の人々とコンクリートに区切られた灰色の空が続くことの場所に、自分の居場所など作れるはずがないと思っていた。

しかし、人というのは思いのほか器用な生き物で、どんなに苦手なように感じる環境にもうまく適応し、気づけば私も立派なこの街の一員となっていた。

利己的で効率重視、人付き合いは軽薄で毎日忙しく働いている。上京の際に持ってきていた世間知らずで素朴な魂はどこかの駅に落としてしまった。それは、行き交う人混みの中でサラリーマンと肩がぶつかり、急いでいるからと謝らずに立ち去ったあの時かもしれない。あの魂は色々な人に足蹴にされながら、例えばホームの隅にひっそりと佇むベンチの足元にでも転がっているのだろうか。

何度か忘れ物センターに足を運んだが、誰も届けてくれてはいなかった。私自身、ろくに探すこともしなかった。

「忙しい」という言葉を免罪符に日々を駆け抜け、あるいは惰性で日をめくりながら、三十路を迎え、想像してもいなかった職につき、個性も感情も取り払われた一般的な人間に無事なることができた。

私は様々な障害を抱えているから、厳密には一般的ではないが、まあ経歴だけ見れば一般的といっても差し支えない範囲の人間だろう。

若い頃のわたしの夢は「普通の人間になること」だった。なぜなら私は普通ではなかったからだ。

物心ついた頃から自分の異様さには気がついていた。集団とうまくやっていくことができず、いつも一人はぐれてフラフラと歩いていた。先生からも親から何度も矯正の手が差し伸べられたが、私の性質は一向に変化することはなかった。

「お前はダサい。周囲に合わせないことをかっこいいと思ってるんだろ」

クラスメイトにそう言い放たれた時、私はただ空の青さに見とれながら、来世は取るに足らない風景の小さな一部になりたいと思った。故郷の春はすでに夏のようなうだる暑さだった。遮るもののない空の真ん中で、大きな太陽が威張るように四方に睨みをきかせていた。

私は普通になる努力をした。他の人と同じように話し、笑い、遊び、そして恋をした。でも、切り開いた道の先には必ず大きな壁があり、それは乗り越えるにはあまりにも頑強で高かった。

壁に体を打ち付けているうちに、私は気がおかしくなっていき、米軍から飛び立つ戦闘機の音を聞くだけでもパニック発作を起こすようになった。片耳は難聴になり、言葉はいっそう途切れ途切れになり、一日に何度も突然津波のような悲しみに襲われた。

うずくまる私をじりじりと太陽が焼き、海風が傷口にふきつけ、素朴なサトウキビたちが私の悪口を言った。

私は普通になりたかった。首の皮はついに一枚だけになり、帰り道を探すことすらできなくなっていた。だから、自決用のロープを一本だけ携えて、私は上京という選択肢を取った。取ったというよりは、すがりついたというほうが正確か。

東京という街は表面はきらびやかだが、その内実は無機質で無表情だった。何もかもが過剰に溢れているから、何もかもが軽薄だった。はじめはとても馴染むことなどできないと思った。しかし、私が育った故郷が太陽だとするなら、東京はすべてを暗く包む月だった。人間の醜態を白日に晒すことなく、地平線のように区別することもなく、ただ冷たくそこにあるだけだった。

私にはそれが心地よかった。人混みにまぎれて生きていくことで、私は私自身という重い鎧を少しずつ脱ぎ捨て、身軽になっていくのを感じた。この街に来て良かったと思う。でも、時々空っぽになった手のひらを見て本当にこれで良かったのか?とも思う。

故郷を出たときに手放した色々なものの代わりに、私はなにを手にしたのだろうか。以前よりも薄くなったような気がする手相をなぞりながら、私はもうすぐやってくる東京の春を待ちわびている。

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