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ガラスの靴はシンデレラのアイテム-「ガラスの靴」安岡章太郎(1951年) /村上春樹『若い読者のための短編小説案内』③

 夜十二時をすぎると、日本橋もしずかになる。
 ときどき高速度ではしり去る自動車のエンジンが、キーンと大げさな物音を遠くまでひびかせる。
「どうしたの。」
 僕は汗ばんだ受話器をもちかえ、テーブルに足をかけて、椅子にもたれた背をそらせながら、ベッドの中からかけてくる悦子の電話にこたえた。

安岡章太郎短篇集 「ガラスの靴」P.7

 書き出しを読んですぐ、「これこれ!」と思った。この頃エッセイとインタビュー集と自己啓発を読んでいた私は物語に飢えていた。

 この村上春樹×「第3の新人」の読書も6作品中3つ目まできたが、今回の短編はあまり何も拾えなかった。多分、女性の描き方が非常に男性視点的だからだ。

【あらすじ】
 銃器屋で夜警のバイトをしている「僕」は進駐軍の中佐の屋敷でメイドをしている悦子と恋仲になる。子どものように無邪気で現実離れした悦子に僕は惹かれる。中佐が避暑地での休暇を過ごすあいだ、留守を預かった悦子と、そこに遊びにいく僕は戯れた日々を過ごす。

 この短編のことを、村上春樹は「生徒C」の言葉として、こんなふうに書いている。

 僕はこの「ガラスの靴」という作品を初めて読んだんですが、ずいぶん昔に書かれたものなのに、少しも古さを感じさせないことにびっくりしました。今書かれたものとして読んでも、ほとんど違和感はありませんね。

『若い読者のための短編小説案内』村上春樹 P.118

 そうか?私にはこの小説は、否応なく古いものに感じた。もっとも、この村上春樹の短篇解説の連載は1996年、今から30年近く前なので、平成前期には当短編の書かれ方は古くなかったのかもしれない。そうだとすると、時代はすごいスピードで変わっていってるのだろう。

 以前、村上春樹が短編集『女のいない男たち』のひとつめの作品「ドライブ・マイ・カー」(2021年に映画化し、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した)を雑誌に掲載したとき、ある一文が問題視され、修正した出来事があった。このニュースにはとても驚いた。昔なら、問題なく出版されていただろうからだ。
 時代は確実に変わっていってる。しかし、作品内にすら倫理観を持ちだされたら、文学は加速度を増して廃れていくだろう。
(村上春樹が超有名作家だから、目に止まったのもあると思う。彼くらい影響力のある作家でしかこういう問題は起きないかもしれない。)

 なぜ「ガラスの靴」がピンとこなかったというと、この手の女性の描かれ方に違和感を感じたからだ。
 そして村上春樹の言葉。

 この作品に出てくる悦子という人は、どうやら現実の世界から意識が離れてしまっているようです。頭がおかしいとまでは言わないけれど、いささかずれています。(略)僕に言わせれば世間の若い女性の八五パーセントまではみんな頭がずれているようなものだけれど(以下略)

『若い読者のための短編小説案内』村上春樹 P.107

 この文章を読んで、出たよ…って思いましたね。自分を基準に見れば、相手は常に間違ってるし、「頭がずれてる」と言えるだろう。

 男性作家の書く女性の登場人物にかなり注視している。そこが自然だと、今まで無関心だった作家が、急に尊敬の対象になる。味方というか、心強いというか。谷崎の『細雪』がそうだし、『進撃の巨人』もそうだった。朝井リョウの『正欲』の女性もすごくリアルだった。中島らもには驚いた。
 それはたとえば「盗撮に遭ったの」と話したとき、「間違いじゃないの」と言うのではなく、最初に「ひどいな」と怒ってくれる人と重なる。
 別にうつくしくなくていい、強くなくていい、特別じゃなくていい、賛美もいらない。ただ、作家なら、女性をただ単なる人間として書いてみろと言いたい。

小説読む 5/12〜5/13
村上春樹『若い読者のための〜』の「ガラスの靴」解説読む 5/13
note 5/14

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