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セッションとジャーナリズムはくっつく。それがweb的

先日、とあるWebメディアの編集長とお茶をしていたとき、まあ僕も本業はwebメディアのデスクなので、色々と相談していたわけですが、彼いわく、「新聞や雑誌とかの紙メディアからwebメディアに転身する人は最近多いけれど、webの世界にフィットするかどうかは、その人のトークセッションを見ればわかるんですよね。フィットする人は大勢の人の前で話すのが上手なんですよ」と。「たくさんの人と即興的にコミュニケーションを取ることが、web的だからでしょうね」。おおお!さすがです。僕のもやっとした思考を見事に言語化してくれました。

前回のnoteで「弱いジャーナリズム」という概念を提示しました。弱いという表現は結構危険で意図が伝わらないことがあると投稿してみて知りました。改めて整理すると、weaknessというよりopennessという表現のほうが適切かもしれません。「強い=硬い」とオープンにならないので「弱い」という言葉を選んだ次第なんですよね。

で、冒頭の編集長さんが言ってくれたのは、まさにopennessの話です。弱いジャーナリズムと並んで僕が研究の軸に置いているのが「セッション型ジャーナリズム」という考え方です。こちらも造語というか新概念です。なかなかバシッと説明するのが難しいのですが、要するにカチカチになったジャーナリズムの中にジャズ的な即興性の要素を入れ込んで行こうよ、一方的に伝えるというある種の権力構造から抜け出そうよ、という僕なりのジャーナリズムの現状に対するアンサーソングのタイトルと思っていただければ。

じゃあ具体的にはどうするの?ってツッコミが入ります。これって生放送のことじゃないのとか、普通のトークライブとどう違うのとか、具体的な成果はどう測るの、とか。

まだはっきりわからないです。わからないから研究しようかと…。

さっきの編集長さんの観察からもわかるように、オープンな場での対話ってすごく難しいです。例えば、紙の大きなメディアの有名な記者が、オープンな場で聴衆といいコミュニケーションを取れるかどうかといえば、そういうわけでもない。あ、そういえば世界で最も影響力のあるジャーナリストの1人であるNewYorkTimesのトーマス・フリードマンは東大の安田講堂で数百人を前にセッションしてました。魅力的でした。

ジャーナリストによるセッションってなんなのか。僕の考えでは、対話することで聴衆から知恵を引き出す、それをフィードバックする、さらにその場で得た知見を言語化して広く世の中に問いかける、このループをプロとして回すことだと思います。また、専門家と非専門家の間のコミュニケーションを取り持つことも、ここに入る気がしますが、この点はさらに奥深い話なので改めて考えたいです。

僕はもともと紙に記事を書いてきた人間で、いまでも紙が大好きです。人前でセッションするなど仕事人生であるとは想像していませんでした。ところが、去年の3月にある場でモデレーターを仰せつかりました。百数十人の聴衆、薄暗いけどきらびやかな空間、相手はキレキレの実力者たち、人生初めてでした。テーマは「本音が踊る場」でした。トークは最後、なぜか仕事や働き方の話から「愛」の話になってしまいましたが、その時以来、僕の頭に「セッション型ジャーナリズム」という概念が住み着いてしまいました。

あれから1年以上が経ちましたが、最近、あの場にいたというある人が「あそこで自分の人生が変わった」と言っているのを人づてに聞きました。うちに帰って、思い出してちょっと泣きました。一方で、仮にも数百万〜数千万単位の「マス」を相手にするメディアが目指すことなのだろうかという声はもちろん聞こえます。でも、百数十人のお客さんのうちの1人の人生が変わった、それも良いほうに。この価値こそ「マス」の前にあるはずだよなと小さくつぶやいてみます。

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