十八史略

【十八史略】(じゅうはっ しりゃく)

 ── 伝説的な歴史である三皇五帝の時代から南宋の時代まで、十八の正史を要約した歴史書のひとつ ──

 現在も同じなのかどうかは知らないけど、昔の中国の人たちの歴史に対する姿勢には厳然たるものがあった。
 それを現すエピソードとして、「春秋左氏伝(しゅんじゅう さし でん)に有名な話が載っている。

 戦国時代、斉の国に崔杼(さいちょorさいしょ)という宰相がいた。なかなか優秀な政治手腕の持ち主だったのだが、権力欲が強くて宰相として権勢を振るうだけでは飽き足らず、ついに国王である荘公を殺し、自分が実質的な国王となった。
 そのいきさつを、国の歴史を記録する係りである太史(たいし)は包み隠さずそのまま記した。
 慌てたのは崔杼である。
 自分の野望のためには主君殺しの大罪でさえもあえてやってしまうほどの男だったが、歴史にその悪名がでかでかと残されるのはさすがに嫌だったらしい。そこで崔杼は、それを書いた太史をなんくせつけて処刑した。
 次に太史になったのは殺された太史の弟である。すぐ上の兄を殺されたばかりなのだから、さすがに書き方ももっと穏健なものに改めるだろうと崔杼は考えたのだが、しかしその新太史も「崔杼、王を弑逆す」とまるで同じように書いた。
 この太史も殺された。
 次に太史になったのはそのまた弟であった。官職は世襲制だったのだ。
 肉親二人が殺されたのを見てるし、その理由もはっきりしているのだから、さすがに今度は自分に都合のいいように書き記すだろうと崔杼は期待したが、あにはからんや三番目の太史も「崔杼、自分の君主を弑す」と端的に、堂々と書き記した。
 頭にきた崔杼は太史の執務室に怒鳴り込み、書き直せと命じた。しかし新しく太史になった弟は冷静な声で、
「気に入らなかったら私を殺せばよろしい。二人の兄に対してやったのと同じように。しかし、私の次に太史になる者もやはり同じように書くことでしょう。その者も殺しますか? あなたがどんなに長生きしたところであと百年も生きるわけではないが、太史は一人が死んでも次が出てきて、ずっと続きます。あなたがどんなに頑張って太史を殺し続けても、最終的には太史の書いたものが残ることになるのです。さぁ、私を殺しなさい」
 淡々としていながら、実に凄まじいまでの気迫である。ここまで言われて、さすがの崔杼もとうとう諦めたという。

 また、この崔杼の方にも目を向けてほしい。
 主君である国王さえ殺してしまうほどの男である。その気になれば、前の太史が書いた物など燃やしてしまい、その上で次の太史を任官できなくすることだってやってやれないことはないはずだ。あるいは自分で書きなおすとか。そうしたら自分の悪逆ぶりを後世にさらさないで済んだのではないだろうか。
 しかし、崔杼ほどの横紙破りであっても、それはどうしてもやれなかったのだ。
 記録官を登用しないわけにはいかず、そしてその記録官がいったん歴史として記録しすると、それはもう神や天帝に属す神聖な物となって、崔杼ほどの人間にとってさえも手が出せるものではなくなってしまうのである。
 おかげで崔杼の君主殺しは今に残されることになったが、これが彼らの歴史に対する姿勢だったのだ。

 歴史書は司馬遷のように個人が出版するアテもなく書くばかりではない(史記の場合は最後は国から認められて採用されたが)。国家もまた正式な歴史書を残そうとする。
 これを正式な歴史書という意味で、「正史」と呼ぶ。
 正史は、「史記」、「漢書」、「後漢書」、「三国志」、「晋書」、「宋書」、「南斉書」、「梁書」、「陳書」、「魏書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」、「南史」、「北史」、「旧唐書」、「新唐書」、「旧五代史」、「新五代史」、「宋史」、「遼史」、「金史」、「元史」、「新元史」、「明史」と二十四あるので、「二十四史」と呼ばれたりもするが、それぞれ、自分たちの王朝がどういう由来で起きたかを説明し、その正当性を述べるのがメインの目的なわけだから、自分たちの王朝の前にあった王朝、つまり自分たちが滅ぼしてしまった王朝のことをまずこと細かに述べることになる。
 挙兵して滅ぼさなければならなかった憎き前王朝なのだから、人情としてはいい加減に悪く書いておきたくなるだろうが、彼らの歴史に対する態度からすればそういうわけにはいかない。どうしても、実に正確に、よかったところはよかった、悪かったところは悪かった、そこで今の王朝が起きることになった、と客観的に叙述しようとするのだ。
 それを国家の威信をかけて行うのだから、できた物は当然ものすごく大部のものとなる。
 いちばん短い「陳書」でも全部で三十六巻、もっとも大部の「宋史」に至っては、治世も長かったせいもあってなんと四百五十九巻という長さだ。
 目の前に置いただけで、それを全部読もうなんて気は起きなくなってしまう。

 しかしそんなことで驚いてはいけない。
 最初の本格的な歴史書が司馬遷によって(本当はその父親が書き始めていた)個人的に始められたことからも分かるように、歴史を記すのは個人や民間だってやったし、また正史の解説書や注釈書、論評などもたくさん書かれたし、そうした物の中にも重要な書はたくさんある。
 先の「春秋左氏伝」もそのひとつだし、おなじみの「論語」を始めとする「大学」「中庸」「孟子」、「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」の四書五経はどうしても外せないだろうし、「国語」や「十六国春秋」、「通典」、「資治通鑑」も一応は目を通しておかねばならないだろう。「西夏紀事本末」や「三朝北盟会編」も、「繹史」、「綱鑑易知録」、「明朝会典」、「皇明通紀」、「明紀輯略」だって避けては通れないし、「続資治通鑑長編」、「資治通鑑綱目」、「通鑑紀事本末」、「宋史紀事本末」、「元史紀事本末」、「明史紀事本末」・・・・、ああ、もうキリがない。

 それらがすべて、彼らの歴史に対する姿勢を反映して、実に緻密で、うんざりするほど詳細で、そしてとてつもなく長~いのである。
 その結果、どうしても読んでおかねばならないものだけでも、とてもその全部を読むことなど時間的に無理、という事態にたちいたる。
 実際、歴史を研究している学者が一生を掛けても、一通り目を通すことさえできやしない、というのが現状なのだ。これは現在でも中国史を専攻する学者にとって頭の痛い問題となっている。
 専門の学者でさえできないものを、他に仕事をもっていたり生活があったりする普通の人間にできるはずがない。
 しかし、歴史を一通り知っていることは彼らの教養の一部、それも大事な基礎の部分でもあるのだから、「読んでません」とか「知りません」では話にならない。そんなことをオクビにでも出そうものなら、バカにされること必至である。
 かといってとても読めやしない。なんとかしなければ・・・・。

 これは昔から中国の人々を悩ませ続けてきた大きな問題だったのだ。
 これを解決するために一人の救世主が現れた。南宋の時代の會先之(そう せんし)である。いや、大げさではなく、中国の人たちからすると救世主と言っていいと思う。
 やった方法はわりと簡単だった。「史記」から「続宋中興編年資治通鑑」まで、中国の主だった歴史書十八冊の、それも有名どころのエピソードだけを引っ張ってきて、それをごく短く簡単に書き直して、ズラリと乗せたのである。
 ダイジェスト版だ。
「十八史略(じゅうはっしりゃく)というタイトルは、十八の歴史書を一冊にまとめあげた、という意味である。(「はち」ではないところに注意してほしい)
 合わせると何百巻にもなる歴史書が、たったの二巻となったのである。
 おかげで、知っていないと恥をかくような有名な話だけは簡単に知れるようになったし、それに載っていない話は「あ、そうでした。いや、ど忘れしてまして」くらいのことでごまかせるようになったわけだから、會さんの手柄は大きい。
 さすがに二巻では少なすぎると思ったのか、後世の人が書き足して七巻にしたが、それでも一冊だけで百巻もある史書とくらべたら雲泥の差だ。
 また内容も、歴史のことなどなにも知らない人、つまり初学者向け、ありていにいって子供向け。それだけに教科書的で、教訓的な内容に換骨奪胎されていて、善玉と悪玉がはっきり分かれてて実に分かりやすく、たいして教養のない者でも読めて理解できるし、歴史エピソードのあらすじも知れる。
 当然、大評判になり、たちまち当時の大ベストセラーとなった。

 そしてこの本が、平安時代の終わりというか鎌倉時代の始めというか、そのころに日本にも伝えられたのである。
 日本人とて中国の歴史をある程度知っていることは(中国人ほどではないにせよ)教養の一部であったわけだが、日本語で書かれていてもとても読めないほどたくさんある歴史書を、それも当時の教養としては漢文で読まねばならないのだから、だれもが持て余していた。
 そこに教科書的で実にわかりやすいこの「十八史略」が伝えられたのだから、そりゃ日本人も喜んだ。そして盛んに読まれることになった。
 といえば聞こえはいいかもしれないが、逆に言えば、この本以外は読まなかった。
 ま、当然だろう。これさえ読んでおけばひととおりの知識は得られるし、それ以上のことは一般の人間には必要ない。
 それに武士の時代の始まりころである。時代の主役は武士、といってもこの時代の武士は刀を振り回すばかりの強盗みたいな連中で、文字が読める者のほうがよほど少ない。それだけに子供向けの教訓的な話のほうが分かりやすかったろう。
 おかげでその後の時代もこの本は広く流布し、中国の歴史書といえば十八史略、といわれるほどメインの物として扱われ続けた。
 現在日本で使われている故事成語のほとんど、というより全部が、この本から取られているものばかりである。それ以外読まなかったのだから当然そうなる。
 日本で使われる故事成語がやたら教訓的な内容ばかりなのは、そういういきさつがあったからなのだ。

 この十八史略、(書かれた南宋の時代で、書き足されたのが明の時代だから)明の時代までのことしか載せられていない。
 だから、その後もたくさん作られたであろう他の故事成語は、日本にはとうとう入ってこなかった。
 歴史的ないきさつがこうでなかったら、故事成語の世界ももっと豊かになっていたかもしれないのだが、今さらそんなことを言ってもせんないことである。
 少し残念な気もするが、いや、もしかしたらこれでよかったのかもしれない。


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