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インドネシアのスディルマン将軍

インドネシア序に、当時の事を記した一文です。

2年ぶりにインドネシアに行って来ました。日本とは異なり、ジャカルタの気温は32℃、むっとした熱気と湿気を感じます。ただ、この時期は雨期らしく、夕方になると空が暗くなり、激しいスコールが続きました。稲妻の光の帯も日本のそれより太く、数秒後に、それに続く雷鳴の大きさも呆れるほどです。ここは、正に南国です。

ジャカルタ市内の喧騒は相変わらずです。町には車が溢れその間を数多くのバイクが隙間があれば、その間を走り抜けようとします。車とバイクがごちゃごちゃになって、動いているというイメージです。日本人の私では、到底運転できない道路事情です。

信号の様子を見ていました。赤信号になるとバイクが信号の前面に出てきて多数がテンコ盛りの状態で並んでいます。車はその後ろです。というか停まっている車の前や空いスペースにバイクが入りこんできて並んでいるという状態です。青信号になると、バイクの群れが一斉に動き始めます。

ジャカルタで、車の中から『スディルマンプラザ』を見ました。そう云えば、インドネシア政府は、独立運動の英雄であるスディルマン将軍の銅像を日本の防衛省に贈っていることを思い出しました。

https://www.id.emb-japan.go.jp/news11_02j.html

その背景には、日本とインドネシア両国の深い歴史的な関係があるということです。インドネシアは、350年間オランダの植民地でした。欧米の植民地は、抑圧と搾取の時代です。インドネシア人もそれを運命だと意識していました。

ところが、日露戦争で、アジア人である日本人がロシアに勝ったことで、「アジア人だからといって、劣っているわけではない」ことに気づきます。日露戦争3年後の1908年、それまでの武力闘争とは異なる新たな武力闘争を始めます。

そして、第二次世界大戦。日本がインドネシアに進出した時、否定的な人もいたでしょうが、日本に期待していたインドネシア人も多かったということです。長い間植民地として搾取してきたオランダ人の敵である日本は、自分たちの味方という意識もあったのでしょう。

日本は対米戦争のため、強い軍を必要としていて、そのため、ペタ(郷土防衛義勇軍)というインドネシア人の組織をつくり訓練します。日本の敗戦後、日本軍の2,000名近くがインドネシアに残り、インドネシア人と一緒になってペタの一員として、インドネシア独立のために戦います。結局、その半分がその独立戦争のために命を失ったということです。

インドネシアが独立を勝ち取った独立戦争で中心的な役割を果たしたのがこのペタであり、その司令官がスディルマン将軍でした。インドネシアでは、今でも最も偉大で有名な国軍司令官となっています。市内には、将軍の名前の『ジャラスディルマン』という道路もあるようです。

https://www.sankei.com/article/20180913-SMIN7ZDC5ZJ5JFBLUEZEKEEB34/

平成23年にインドネシア国防省から寄贈された将軍像は、防衛省の西の端、市ケ谷記念館脇の緑地に力強く立っています。スディルマン将軍の銅像の受け入れを日本政府がOKしたため、インドネシア人としても大変喜んでいるそうです。その銅像は、インドネシア人のシンボルであり、日本とインドネシアの特別な関係も表しています。

結局、クラカタウ・スチールとのビジネスは前に進みませんでしたが、両国の歴史を感じながら共有した時間は貴重なものでした。


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