不完全すぎる生き物

2ヶ月ほどnoteをサボりました。
ただ未来の自分が振り返って「馬鹿だなぁ」とか思うようなこと書けばいいと思って始めたnoteだったんですよ。

今でもその気持ちは変わってないんですけど、なぜかもうちょっとためになることを書かないといけないとも思ってしまって、書けなくなったみたいです。

馬鹿ですね。

未来の私が求めているのはきっと「過去の自分が何をどういう道筋で考えたか」なんです。
日記なんて残していない小学生の頃の私の思考回路はもう自分にもわかりません。
中学生の頃だって何を考えていたのか、もう覚えていませんから。
だからせめて今を残そうと、思ったんですよ。

歳をとると無意識に経験をなぞります。
考える時間が減るんです。

時間は一定に流れています。
けれど体感は全く一定でない。

私たちの大半はきっともう体感する時間の半分以上を費やしてしまっています。
実際の時間はまだまだあるはずなんですけどね。
密度のある時間を作るには気力も体力も年々削がれる一方で……。

だからせめて何か新しいものを見て、聞いて、考えたいんです。
それに一番適しているのは読書だと考えます。テレビのような一方通行ツールは熟考に向きません。何よりコスパが最強です。

まあ読書というのも、集中力やらまとまった時間やら、せめて片一方だけでもないとできないものですが。

歳をとるってもっと素敵なものだと思っていました。
高い身長を得て、子供だからと馬鹿にされることもなく、車の運転もできて、色々なところへ行ける──。

確かにその通りにはなりました。
でも子供の頃持っていた溢れるほどの気力体力は反比例するように無くなっていくんです。

どうして片方しか揃えられないんでしょうね。


人の寿命はもっと短いか、もっと長いかのどちらかでなければいけなかったのだと思います。どうしてこんなにも微妙な時間を残されてしまったんでしょうね。
人間はあまりにも中途半端だと、いつも思います。
知能にしても、身体能力にしても。種族的器用貧乏ですか。人間以上に不完全な生き物を私は知りません。

まあ私、人間ですからね。











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