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【世界史】インドの歴史

大きな流れとしては、ドラヴィダ人がインダス文明を興したがなぜか滅亡。その後にアーリヤ人がやってきて古代王朝を作り、バラモン教が生まれた。バラモン教はヒンドゥー教となり、仏教が派生する。13世紀頃にイスラム勢力がやってきて王朝を作り、イスラーム化が進む。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒とが対立。17世紀になると西欧諸国やってきて、19世紀にはイギリス領インド帝国となる。第二次大戦後にヒンドゥー教徒はインドとして独立、イスラーム教徒はパキスタンとして独立した。

古代インド

インダス文明

紀元前2600年頃、現在のパキスタンが位置するインダス川の流域に、ドラヴィダ人によって文明が興った。インダス文明である。代表的な遺跡はモエンジョダロハラッパー。モヘンジョダロは遺構の調査から緻密な都市計画をもとに作られ、水洗トイレや下水道、井戸、浴室など高度な水利システムが整備されていたことがわかっている。また発掘された印章などに刻まれていたインダス文字はいまだに解読されていない

紀元前1800年頃にインダス文明は滅亡するが、その理由はわかっていない。気候変動による砂漠化や河川の氾濫などが考えられている。またモヘンジョダロから発掘された遺骨から高い放射線が検出されたことから、超文明による核戦争により滅んだというトンデモ説もある。

ヴェーダ時代

インダス文明が滅んでから200〜300年後、紀元前1500年頃に中央アジアからアーリア人が侵入、先住民のドラヴィダ人を征服し、インド北西部を征服した。これによりインド・ヨーロッパ語族が形成される。このときアーリア人が先住民にたいして優位性を示すために身分の差を作ったことがカースト制のはじまりとされている。ちなみにこのときの民族分布はいまも続いていて、インドの北にはアーリア系の人たち、南には先住民系の人たちがいるらしい。

アーリヤ人は自然を神として信仰しており、自然崇拝の讃歌集である『リグ・ヴェーダ』が作られた。この時代は前期ヴェーダ時代(紀元前1500年頃〜紀元前1000年頃)と呼ばれる。またこのアーリア人の思想が土着の神々や儀式を吸収しながらバラモン教を形成していった。

紀元前1000年頃にはアーリア人は勢力をインド北東部のガンジス川流域まで拡大し、農耕をベースにした社会を築いていく。これがガンジス文明で、後期ヴェーダ時代と呼ばれる。

またこの頃、バラモン教が形式主義的になってきたことへの批判から宇宙の真理を把握しようとするウパニシャッド哲学が生まれ、そこからさらに仏教ジャイナ教が誕生した。

古代インドの諸王朝

マウリヤ朝

紀元前5世紀には十六大国といわれる諸国が群雄割拠し、最終的にマガダ国とコーサラ国とが争った結果、マガダ国がガンジス川流域を統一した。マガダ国ではナンダ朝を倒したチャンドラグプタがマウリア朝を建て、紀元前4世紀、インド初の統一王朝であるマウリヤ朝マガダ国が成立した。紀元前3世紀、アショーカ王の時代にマウリヤ朝は最盛期を迎え、インド亜大陸の全域を支配する帝国となった。

アショーカ王は99人の異母兄弟を殺して王座につき、王になってからも戦争で暴虐のかぎりを尽くしたが、あるときに僧侶の説話を聞いて仏教に帰依し、以後は仏教を広めるとともに正しい政治を行うようになったと伝えられている。

インドの映画『アショカ王』はアショーカ王の反省を描いた大作である。

アショーカ王の死後に弱体化が進み、紀元前2世紀には滅亡、ここから数百年間は混乱の時代が続いた。ここまでが紀元前、ここからが紀元後。

クシャーナ朝

混乱の時代を経て1世紀にイラン系クシャーナ朝が成立、2世紀のカニシカ王のときに最盛期を迎えた。この頃に大乗仏教がおこり、ナーガールジュナ(龍樹)が「空」の思想を説いた。またこの頃に仏教文化とギリシア美術が結びついたガンダーラ美術が成立した。3世紀にササン朝ペルシアの遠征により衰退し滅亡した。

グプタ朝

3世紀にはチャンドラグプタ1世がグプタ朝を建国。サンスクリットが公用語とされた。バラモン教と民間信仰が結びついた形で、ヒンドゥー教がこの時代に確立され民衆に広まった。またこの時代にゼロの概念が生まれた。エフタルの侵入により6世紀に滅亡した。

ヴァルダナ朝

7世紀になってハルシャ・ヴァルダナがヴァルダナ朝を建国。唐の玄奘がインドに訪れ、ナーランダ僧院で学んだのちに多数の仏典を持ち帰って漢訳仏教の基礎が固められた。ハルシャ王の一代で瓦解してしまう。

ラージプート時代

7世紀から13世紀までは群雄割拠の時代となり、これをラージプート時代と呼ぶ。ラージプートとはクシャトリヤの子孫を意味し、この時期の諸侯がラージプートを自称したことによる。

10世紀後半、中央アジアにあったイラン系のガズナ朝、その後のゴール朝が北インドに侵攻、ラージプート諸侯は対抗したが、内部抗争が続いたために結束することができず、イスラーム勢力の侵攻を許した。これ以降はインドのイスラーム化が進むこととなる。

インドのイスラーム化

デリー・スルタン朝

13世紀から約300年間、デリーを拠点としたイスラームの5王朝(奴隷王朝、ハルジー朝、トゥグルク朝、サイイド朝、ローディー朝)があいついで北インドを支配した。これを総称してデリー・スルタン朝という。イスラームへの改宗が強制されることはなかったが、都市を中心に徐々にイスラームが普及していく。

ムガル帝国

16世紀、中央アジアでティムール帝国が滅亡すると、ティムールの王子であるバーブルが北インドへ南下し、ローディー朝を破ってムガル帝国を建国した。3代皇帝のアクバルは、イスラーム教徒とヒンドゥー教徒との融和を図るためにヒンドゥー教徒にだけ課せられていた人頭税(ジズヤ)を廃止、人民の信頼を集めて帝国財政を安定させた。

6代皇帝アウラングゼーブの時代にインドのほぼ全域を支配するまでになったが、ジズヤを復活させるなどヒンドゥー教への弾圧を行ったため、ヒンドゥー教徒が反乱を起こすようになった。こうしてムガル帝国は弱体化していく。

陳舜臣の『インド三国志』はムガル帝国の滅亡を描いた歴史小説。

西欧諸国の進出

17世紀になるとイギリス、オランダ、ついでフランスがインドに進出、それぞれが東インド会社を設立して権益を争った。そんななかでイギリスがオランダ、フランスをインドから駆逐し、マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。

イギリス領インド帝国

イギリスによる支配に対して各地で反乱が起こる。1857年から1858年の間に起きた反乱をインド大反乱と呼ぶ(インド側からは第一次インド独立戦争と呼ばれる)。イギリスはこれを徹底的に鎮圧、ムガル帝国を滅ぼし、東インド会社ではなく本国が統治することとなった。そして1877年、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。

インド映画『マニカルニカ ジャーンシーの女王』はインド大反乱の女性指導者ラクシュミー・バーイーを描いた作品。

民衆の反英感情が強まるなか、イギリスは分割統治を行った。イスラーム勢力とヒンドゥー勢力とを分断することで、両者の溝はどんどんと深まっていく。

2度の世界大戦と独立運動

第一次世界大戦がはじまると、インドからも多数の兵士が西部戦線に送られた。そんななかで非暴力・不服従を掲げたガンディーが民衆の反映闘争をリードした。またのちにインドの初代首相となるネルーもこの動きに共感してともに活動した。

チャンドラ・ボースは日本軍に協力してイギリスを追い出す戦いに立ち上がり、日本軍とともにイギリス軍と戦った。ちなみに新宿中村屋カレー生みの親であるラース・ビハーリー・ボースとは別人である。

インド・パキスタンの分離独立

インドの独立

第二次世界大戦後の1947年、インドの独立が実現するが、ガンディーの目指した「一つのインド」としてではなく、ヒンドゥー教徒の国インドと、イスラーム教徒の国パキスタンとに分離して独立することになった。これにともないインドにいたイスラーム教徒はパキスタンへ、パキスタンにいたヒンドゥー教徒はインドへ大移動することとなり、各地で衝突が起きた。また北部の山岳地帯にあるカシミール地方はインドとパキスタンがともに領有権を主張し、いまだに紛争が続いている。



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