吉田明彦

古文書・文化財撮影専門の吉田スタジオ代表。日本文化関連の本を読むうちに、自分なりにまと…

吉田明彦

古文書・文化財撮影専門の吉田スタジオ代表。日本文化関連の本を読むうちに、自分なりにまとめたくなりました。ほぼ丸写しのところもあるので、興味がある方はテーマごとの最後に参考文献を載せていますので読んでください。ときどき、撮影のことや同居している猫の話もします。

最近の記事

日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_7 稲作の真実

コメは江戸時代の初め頃に1800万石取れ、幕末には3200万石取れ、一人一年の消費が一石だとすると、充分に人口をカバーしています。 しかし、そこにはカラクリがあるのです。 大都市の料亭などを中心に、あちこちで「大食之会」や「大酒之会」が行われていました。 記録として残っているものもあり、大食では菓子、うなぎ、ソバ、飯などがあり、飯組では一人で茶漬茶碗で47杯から68杯などが記されています。 大酒の方は祭りや祝い事の余興としても行われ、その量を競うものと早飲み競争があり

    • 日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_6 近世

      さて、江戸時代、初めの100年で人口は3倍近い3000万人に達します。 寛永と元禄の飢饉はあるものの、婚姻革命や小農民の自立、平和な時代が人口を押し上げました。 しかし、自国通貨を発行し、コメ=貨幣掲載になったことに気が付かない幕府は、享保・寛政・天保という新田開発を中心とした3つの改革という名の改悪を行い、自らの首を絞めて行きました。 この時代、田畑面積は2倍に増え、実石高も1.5倍になります。幕府や藩の石高による格式や、武士の給料〇〇石は一定です。一方、コメは収量が

      • 日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_5 朱子学

        兵農分離や検地を引き継いだ江戸幕府は、過激な朱子学を取り入れたため、益々コメ中心の農本主義へと染まって行きます。 ここで儒教(学)と朱子学について説明しておきます。 孔子(コウシ)(BC551?~479年)が説いた思想が儒教。孔子は殷(イン)を滅ぼした周(シュウ)の体制を理想とし、祖先崇拝を人倫の道として体系化しました。孟子(モウシ)も儒教の聖人です。 周に滅ぼされた殷の民は、土地を失い、流浪し、商売で生きて行きました。 そしてなぜ「商人」と言うかというと、俗説として、か

        • 日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_4 中世

          平安末期に武士が台頭して来ます。武士は基本的に農民ですから、この頃からようやく「コメ」を作る喜びの萌芽のようなものが表れて来たのでしょう。 しかし、武士が権力を握る鎌倉時代から戦国時代まで「コメは権力」の時代は、まだまだ続きます。 鎌倉時代、製鉄技術に革新があり全国の農民に鉄製農具が普及します。 また、西日本では牛が、東日本では馬が、農耕に使われるようになり、それまで肥料といえば草木を刈り出し焼いた灰(肥灰)だけであったものが、家畜の排泄物(厩肥)の利用へと変化していきま

        日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_7 稲作の真実

          日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_3 古代 コメよりもアワ

          それまで、人々は囲炉裏でコメを含む雑穀を煮て、雑炊として食べていましたが、古墳時代に入り西日本ではカマドが発明され、おこわのように蒸して食べるようになりました。 ここで、もう一つ、森浩一氏の指摘する深層文化。 粟(アワ)と禾(アワ・カワ)、畠に生えた植物の状態が禾、収穫した粒が粟となります。「倭名類聚抄(ワミョウルイジュショウ)」(平安前期にまとめられた百科辞書)の中では、穀について「禾、稷(キビ)、菽(マメ)、麦、稲」と五穀の筆頭に挙げています。 また、「常陸(ヒタチ)

          日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_3 古代 コメよりもアワ

          日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_2 黒ボク土

          ここで「黒ボク土」のことについてふれておきましょう。 甲子園球場の内野に撒かれている、あの黒い土のことです。黒ボク土は、ホクホクしていて、とても軽いものです。 この重量感も、色も、草の葉などが堆積し腐植することに由来し、そしてそれらは火山による地質や火山灰の化学的性質を帯びることによって形成されます。 時間軸の上では1万数千年前に始まり、それ以前には存在していないこと、縄文時代の人口が多かった地域との重なりなどから、ある姿が見えて来ます。 縄文人が森林を伐採し、焼き払い

          日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_2 黒ボク土

          日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_1 稲作のはじまり

          プラントオパールとは、植物の葉の細胞に溜まったケイ酸(SiO2)の塊(ケイ酸体)が、遺跡の土壌中から見つかる一種の微化石です。その形を調べることで何という植物かや、品種などがわかるのです。 約6400年前の縄文前期の遺跡からイネのプラントオパールが出土しています。 また、縄文後期の土器中からもイネのプラントオパールが見つかっており、縄文時代にイネの栽培があった事は確かなようです。 ただ、これらはイネの中でも焼畑による陸稲栽培であったようで、南からの海の道、経路でやって来

          日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_1 稲作のはじまり

          日本文化の基層 ②人(ヒト)

          アフリカの大地で、約700万年前にサルと人類の祖先が枝分かれします(猿人)。 その後、200万年前に原人への進化、100万年前に旧人へと進化、そして20万年前に新人へと進化したホモ・サピエンスが我々人類の直接の祖先です。 母親からだけ受け継がれるミトコンドリアDNAを辿ると、16万年前(±4万年)の東アフリカのたった一人の女性に行き着き、彼女はミトコンドリア・イブと呼ばれています。 また、父親からだけ受け継がれるY染色体DNAを辿っても7万年前(±1万年)の東アフリカのY染

          日本文化の基層 ②人(ヒト)

          日本文化の基層 ①風土

          今から2500~1500万年前、ユーラシア大陸の東端に亀裂が入り、そこに海水が流れ込みました。(この頃は、ユーラシア、太平洋、フィリピン海の3つのプレートでした) 1500~300万年前、北上したフィリピン海プレート上の海底火山や火山島が次々に衝突し、ユーラシアプレートに対し北米プレートが西進して来ます。 300万年前、北へ向かっていたフィリピン海プレートが北西へと進路を変え、太平洋プレートが沈み込み、日本海溝そのものも西への動き出し、東日本を圧縮し始めました。 この東

          日本文化の基層 ①風土

          日本文化の基層 ~はじめに~

          桜という言葉。「サ」は穀物(稲)の精霊と「クラ」は神が座す場所。雪が消えて冬が終わり、穀物の精霊が最初に舞い降りてくる場所、それが「サクラ」だという語源説。 語源論としては少しできすぎていて、あやしげだが、一般的には定説だと言えるのかもしれません。(岩波新書『桜が創った「日本」』佐藤俊樹著) しかし、古代・上代の日本語の語源や文法を研究している国語学者 山口佳紀氏は『語源は動詞サク(咲く)に名詞をつくる接尾語ラがついたもの。尚、一説にサは神霊を表し、クラは座の意で、サクラは

          日本文化の基層 ~はじめに~