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求めてるのは正しさじゃなくて美学なんだよ

「不倫ってどう思う?」とたまに聞かれる。

そのたびに「誰の不倫かによる」と答えるので、我ながらめんどくさいし、友達には「本当に言葉を大切にするよねぇ」と呆れられる。

私は、他人の不倫に対して「ふーん」としか思えない。

それは「他人をジャッジしたくない」とか「自分には口出しをする権利がない」とかではなく、心底「ふーん」以外の感想が浮かんでこない。ベッキーにも小室哲哉にも、身近な知人の不倫にも「ふーん」。

極端な話、夫以外のすべての人間が不倫していたとしても、「ふーん」なんじゃないだろうか。意識が自分に向きすぎているため、自分に害がないことに関心を持てない。

他人の不倫の話を聞いて「ふーん」と言っていると、「不倫に肯定的なんだ」と解釈されることがあるが、それは違う。

否定しないことと、肯定することはイコールではない。

私のせかいは二極でできているわけではなく、だいたいのものごとがグラデーションだし、グラデの枠からはみ出たカラバリもたくさんある。

肯定でも否定でもない、まったく違う色の感情もたくさんあるのだ。

話を「不倫ってどう思う?」という問いに戻すと、私はその行為を「なんかダサい」と感じる。

それは、決して「倫理に反しているから」ではない。倫理とはまったく別の観点、「美的センス」のような観点から見て、なんかダサいと思うのだ。

だから私は不倫をしたくないし、したことがない。正しさや優しさからくる行動指針ではなく、(自分にとっての)ダサい服を着たくないとか、ダサい音楽を聴きたくないとか、そういったこだわりと同列に「不倫したくない」がある。求めてるのは、正しさじゃなくて美学だ。

もしも私がフリーダ・カーロだったら不倫をしたと思う。彼女のあのルックスとキャラでする不倫は、私にとってあまりダサくないからだ。

でも実際の私は、意思の弱さがにじみ出ている地味顔で、小心者で、依存心が強い。そんな私が不倫をしていたら、チープすぎて美しくない。

言うまでもないけれど、これは「人からどう思われるか」という話ではない。あくまで、自分の美学に沿うかどうか。

仮に絶対にバレない不倫があったとしても、私自身にはどうしたってバレるんだから、もしも不倫なんかしちゃった日にはそんな自分に「うわ、だっさwww」と思うだろうし、そのダサさに耐えきれないと思う。

そもそもがオシャレな人間じゃないから、せめてこれ以上ダサくなりたくない。倫理には反しても、美学には反したくない。

先日、ある人から「もしも誰かを殺せるとなったら、どういう殺し方をしますか?」と聞かれた。

少し考えて、「もし誰にもバレずに殺せるとしても、殺さないです」と答えた。

それも、「殺人はダメ」という当たり前の倫理観もあるけど、殺人をする自分(直接手を下さない殺人含む)を想像したとき、すごくダサいと思ったから。

「他人の生死を決める権利が自分の手中にある」と思っているおこがましさって、浅はかでダサいと思うのだ。夜神月かよ。

もちろんダサさの基準は人それぞれで、私にとってダサいものも、誰かにとってはかっこいい。

私は、私の基準におけるかっこよさを追求したい。




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