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「本当はきれいになりたい」と気づいたこと

少し前、憧れのイラストレーター・鈴木みきさんと対談させていただいた。

対談はすごく楽しい時間で、いい体験だったのだけど、送られてきた完成原稿を見て私はしばらく情緒不安定になった。

なぜか。

写真を見て、自分の容姿の悪さに落ち込んだのだ。

自分でも引いた。私は35歳だ。思春期の頃は自分の写真を見るたびに「ブスすぎて死にたい」と落ち込んだが、そんな容姿コンプレックスはもうとっくに克服できたと思っていた。

けれど、未だに思春期と同じくらいに落ち込み、泣き、仕事が手につかなくなっている自分がいる。

いい年して異常だと思うし、カウンセリングが必要かもしれない。

小学校高学年~中学時代、毎日のように「なんでこんな顔に生まれたんだろう」と落ち込んだ。

中学2年の途中まで、面と向かってブスと言われたことはなかった。けれどそれは、私がクラス内で権力のある女子と仲が良かったからだ。陰ではブスと言われている(思われている)ことに気づいていた。

実際、そのグループから仲間はずれにされて虐めの対象になってからは、毎日のようにブスと言われた。

クラスメイトたちは「あいつブスのくせに調子乗ってて、自分がブスだって気づいてない」と言ったが、そんなことはない。

知ってるよ。自分の容姿が良くないことは、あんたらに今さら指摘されるまでもなく、小さな頃から知ってたよ。

中学・高校時代の写真は数枚しか残っていない。見るたび落ち込むから、自分で捨ててしまった。

その数枚を捨てなかった理由は、祖母と写っているから。「これを捨てたら、いつかおばあちゃんが死んだときに後悔する」と考え、捨てなかった。


高校卒業後、私は芸術系の専門学校に進学し、その後は山小屋で働いた。

芸術系の学校も山小屋も、容姿がヒエラルキーを決める世界ではなかった。

私は容姿コンプレックスから解放された……と思っていた。

しかし、それは真の解放ではなかったのかもしれない。

「容姿差別を受けにくいコミュニティ」に身を置いたことで、容姿コンプレックスを忘れていただけかもしれない。

少し前、こんな記事を書いた。

この記事の中で、「私は不美人だが、35年も使っている顔なので愛着がある。それでいいじゃないか」と書いた。

実際、そう思っていたはずだ。

なのに、私はやっぱりルッキズムに捉われていた。

この顔に愛着を持っている。それは嘘ではない。けれど、「ブスな自分でもいいじゃん!好き!」とはどうしても思えない。上記のような記事を書いておきながら、まだその境地にまでは達していない。

容姿コンプレックスを乗り越えるアプローチは二種類あると考える。

①自分を美しいと思えるようになること
②美しくない自分を肯定し、受け入れること

私は②を選んだ。上記の記事にも、そのことを書いている。

けれど、私は本当は①を望んでいるのではないか。

美しくなりたいし、自分を美しいと思えるようになりたいのではないか。

写真を見て、そんなことに気づかされたのだった。


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