そこはかとなくかきつくったよ。
「そこはかとなくかきつくったよ。」、それはケータ〇小説や、前略〇ロフィールが流行ったころ、わたしが更新していたブログのタイトル。
友人知人レベルではありつつも、じわじわファンを獲得していたそのブログは、まあ、中学生の割にはがんばっていたかな?という内容。(中二病全開の社会風刺や自称エッセイ満載)
あのときのわたしと、いまのわたしとで、いったい何が成長しているのだろうか、と、ぼんやり考える。
あー、
あまりかわっていないなあ。
自己同一性という観点からすれば、物心ついたころからいままで、己の内に変わらないものがある、ということは素晴らしいことなのかもしれない。
いまもむかしも、わたしはわたしだなあ。
その一方、身長や社会的地位、経済力、知識量、泳力、筋肉量etcなど、外から見えるところはあまりにも変わっているのに、中身は何も変わっていない、といえる。
なんてアンバランスなのだろう、わたし。
みんなもこんな風に考えたりするんだろうか。ひとのきもちというのはわからない。
あ、人の気持ちのわからなさ加減、これは本当に昔からかわらない。常にわからない。どれくらいわからないかというと、いや、もはや適切な例を示すことがかなわないくらいわからない。
年を経るに連れて、パターンとして学習されたコミュニケーションは枚挙にいとまがない。
相手の発する言葉、目の動き、口元の緩み具合、汗、語気の強さ、抑揚、鼓動、体温、体勢、
数多の情報から、わたしがいまとるべき一挙手一投足を検討し、実践し、フィードバックを得る。
わたしが想像した結果が返ってくれば”パターン”として学習し、
想定外の反応がくれば、ひとまずパニックを起こしている脳みそを落ち着けることに集中。落ち着き次第次の行動を選択、実行。
ひと段落したら、脳内再発防止策検討会議を開催、本件と同様のパターンが発生した際のマニュアルを策定できるまで、場合によっては年単位で会合を重ねる。脳内で。ひとりで。
そんなことをしているときには、自分のなかにいろいろな視点を持つわたしがいる。
「先生」の立場にいるわたし、
「先輩」の立場にいるわたし、
「上司」の立場にいるわたし、
「交際相手」の立場にいるわたし、
なにかがあるたび、彼ら、彼女らが、舌戦を繰り広げるのだ。脳内で。
そんなことを繰り返しているうちに、わたしの中の”わたし”に異変が起きたのだ。正確にいえば、異変が起きているらしい状況であることを認識した、のである。
続きは気力↓↓次第でございます
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