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ぼくは子どものころからテレビっ子だった。

 ぼくは子どものころからテレビっ子だった。
 ぼくの家にテレビがやってきたのは、1961年、ぼくが小学校へ入学する前の年だったと思う。
 それまでは、テレビというと、うちの裏の家でときどき見せてもらっていた記憶がある。
 確か、夏の夜だったと思うが、家族でその家に出かけた。そこにはうちの家族以外に近所の家族もいたような気がする。
 テレビと言っても14インチの今の基準では小さな画面で、しかもモノクロで、それなのになぜか立派な4本の足がついていて、その家の主の息子がランニングシャツでテレビの前で寝そべって、右手で頭をつっかいぼうして、生意気な格好で見ていた。ぼくたちはそのうしろに正座して、さも大切なテレビを見せていただいている、といった家来みたいな感じで一生懸命小さな画面に目を凝らしていた。今でも覚えているそのテレビに映っていたのは、オリンピックの体操競技、男子の床運動の模様だった。ローマオリンピックの中継だった。
 ぼくと弟は、そんな窮屈な思いをしてその家にテレビを見に行くことはいやだったので、父親にテレビを何度もねだった。その結果、翌年やってきたのが、日立製の14インチテレビだった。裏の家のテレビと同型だった。テレビの前に立派な刺繍の入った幕がかかっていた。見るときはその幕を上げるのだ。
 となり町からやってきた電気屋さんがテレビを設営している間、ぼくと弟は大喜びでテレビの近くでとんだりはねたりした。
 電気屋さんは、瓦屋根に上ってアンテナを取り付け、アンテナの向きを動かしながらテレビの映り具合を調整していた。アンテナは、台風のたびによくずれた。
 その頃のテレビは真空管テレビで、テレビの横のすき間から中をのぞくと、ガラスの真空管の中のフィラメントみたいな針金が赤い光を心細げに放っていた。この真空管がよく切れて、そのたびに電気屋さんがやってきた。
ぼくらの世代はテレビっ子と呼ばれた。テレビばかりみると頭がバカになるぞ、近くで見ると目が悪くなるぞ、と当時、大人たちはよく言っていたものだ。夏休みに入る前には、学校の先生からテレビを見るのは一日何時間まで、1メートル以内に近づいてはダメ、など注意事項を聞かされたものだ。テレビの前につけると画面が大きくなる、プラスチック製のレンズみたいなものもはやった。
 とにかく大人たちは、この新兵器みたいなテレビによって、戦後の新しい日本を背負う子どもたちが滅びるのを阻止していたに違いない。
 テレビでは、日本製のドラマはまだ少なく、「ポンポン大将」「ナショナルキッド」「七色仮面」や「スーパージャイアンツ」(このテレビ番組は、宇津井健主演のスーパーヒーローものだ。宇津井健の白のタイツ姿はよかったが、あそこのもっこりが、中がどうなってるのか子どもの自分にも気になって仕方なかった)「怪傑ハリマオ」はあったが、アニメはアメリカ製のハンナバーベラの「珍犬ハックル」「早射ちマック」「ドラ猫大将」「宇宙家族」など毎日のようにどれかをやっていたし、ほかにも黄色いカバンの「猫のフィリックス」「キャプテン・ゼロ」(口元が実写の変わったアニメ)「ポパイ」(ホーレンソウの缶詰にあこがれた)「トムとジェリー」など、とにかくアメリカ製のアニメをふんだんに見てしまった。
 他に、アメリカ製実写ドラマの「ローンレンジャー」「ララミー牧場」「名犬ラッシー」「名犬リンティ」もあったなあ。当時の西部劇物は、インディアン(先住民)をバンバン撃ったりして、今思うととんでもないドラマだった。子ども時代にこんなにアメリカ製を見てしまったぼくはひょっとするとアメリカ人になってしまったかもしれない。しかも英語がしゃべれない。
 ここへイギリス製のスーパーマリオネットの「スーパーカー」や、やがて大ヒットとなった、ぼくの中でもバイブルみたいな「サンダーバード」が登場する。これは人形なのにリアルで大人も十分楽しめる作品だった。CGがなくてもここまで表現できるのだ。すごすぎる。(黒柳徹子のペネロープの声はぴったしだった)
 日本の子ども向けドラマも、「忍者部隊月光」や「隠密剣士」が登場し、ぼくは忍者のマネをしてよく押し入れから天井裏に上がっていた。うそみたいだが、ぼくは自分のことを忍者だと思っていた。よく小学校の砂場でバク転の練習もした。技の完成前に頭を打ったこともある。忍者だと思っていたぼくは、小学校の完成したばかりの鉄筋2階建ての新校舎の2階の窓からからだを乗り出して、足をぶらぶらさせた。この様子を見ていた同級生が、担任の女の先生に言いつけたので、ぼくはみんなの前に立たされて、先生から「こんな悪い子はいません」とか言われて、その日の放課後はひとり居残りで漢字の書き取りをさせられた。
 帰宅したぼくは、さっそく風呂敷で覆面をして「隠密剣士」の伊賀忍者となって押し入れから天井裏へと上がった。そして壁のすき間から外界の様子をうかがった。すると、担任の先生のトヨタパブリカが、小学校へ続く家の前の坂道をおりてくるではないか。先生は、母親に今日のことを報告しに来たのだ。「これはまずい」と思い、ぼくはそのまま天井裏で時の過ぎるのを待った。
 当時の忍者ブームはものすごかった。アニメでも「風のフジ丸」が登場し、確か番組の終わりに忍者道場の本物の忍者みたいなおじさんが出演して、当時の若手人気女優の本間千代子が忍術について質問していた。ぼくは吉永小百合でなく、本間千代子のほうが可愛いと思っていた。スポンサーは藤沢薬品だった。それで「フジ丸」なんだね。それは子どもでもわかっていた。
 当時のテレビアニメは、主題歌にスポンサー名を組み込むのが多かった気がする。「鉄人28号」はグリコだったのをよく覚えている。
「丸美屋食品の提供でお送りします」で始まるのが「8マン」と「スーパージェッター」。のりたまをご飯にかけていっぱい食べた。
「鉄腕アトム」はマーブルチョコの明治製菓だったかな。マーブルチョコ(当時の有名子役の上原ゆかりがCMに出ていた)のセロハンのラベルに縦に縞が入っていて、ラベルを動かすと中のアトムの絵が動いた。「狼少年ケン」は、森永製菓だった。
 ぼくの家はそのころ、ガソリンスタンドと今でいうコンビニみたいな何でも屋を経営しており、店の奥に住まいがあったので、ぼくはよく森永のチョコレートボールを食べて、金のくちばしが出るまで店の商品を食い荒らし、ついに「まんがのカンヅメ」をゲットした。無茶苦茶な子どもだった。それでも店で売っていたバナナは当時、ひとたば30円か40円の高級品だったので、さすがにそれには手を出さなかった。あまりにでたらめだったので、祖父に縛られて、なぜか弟も縛られて、川へ捨てると言われて、ちょうど夕飯時だったと思うが、晩酌で酔った祖父に抱きかかえられて近所の川っぷちまで連れて行かれたことを思い出す。怖かった。そんな怖ろしい祖父だったが、毎月、バリカンで禿げあがった頭のうぶ毛を刈ってあげると500円くれた。この500円でぼくは、自分ちの店ではなく、よその店へ買い物にいった。友だちとよその店の前で、アイスキャンデーをなめながら半日だべっていたり、ショウヤ(メンコ)で遊んだり、一体何をしていたんだか。
 平和な日々でした。ほんとに。

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