戦争の話。
終戦記念日も近いので、ちょっと戦争のことについて書こうと思います。
と言っても、何も難しいことはありません。
僕も世界の戦争や紛争に詳しいわけではありません。
明治生まれのおじいちゃんが、戦争を経験していました。
僕が原作をやった漫画にも出てきた、最初に僕に麻雀を教えてくれたおじいちゃんですね。
しかし、おじいちゃんは戦争のことを一切僕には話しませんでした。
余談ですが、僕は昭和50年8月6日の広島生まれなんですよね。
ヒロシマ原爆記念日です。
育ったのは父の実家がある島根県ですが、母の実家は広島県にあり、長期休暇はよくそこで過ごしていました。
ですから、夏休みに広島で迎える僕の誕生日は、そんなにお祝いムードにはなりにくかったです。朝から黙祷ですからね。
それでも、僕はおじいちゃんとセミを採ったり、川で遊んだりして過ごす田舎らしい当たり前の夏休みが大好きでした。
のどかで、戦争のあったことなど微塵も感じさせない穏やかな日常が、僕の知っている広島の夏でした。
そのため、毎年その時期にテレビで放送される、被爆者たちの経験談というものが、どこか他人事のように感じていました。
おじいちゃんおばあちゃんは広島県にずっと住んでいるのにも関わらず、当時のことをまるで孫である自分に話そうとしません。
市街地から離れていたため、原爆自体の被害はあまり目の当たりにしていないのかもしれません。
そうは言っても、直接戦争を体験していた世代が、戦争の恐ろしさを後世に伝えていこう、という話はよく聞きます。
興味本位に僕が戦争の話をちょっと聞こうとしても、おじいちゃんは困った顔をして、何も教えてはくれませんでした。
それから何度目かの8月6日。そのころには実家に帰るような年頃でもなく、夏休みを島根の友達と過ごすようになっていました。
やはりテレビで流れる記念式典の様子を見て、ふと母に
「そういえばおじいちゃんは、全然戦争の話をしないよねえ」
と話しました。
母は、もうアンタも大きくなったから、と言っておじいちゃんのことを教えてくれました。
おじいちゃんは戦時中満州にいて、今のおばあちゃんとは違う奥さんと、男の子と女の子、そして小さな娘さんがいたと。
日本が負け、戦争が終わり、混乱の中たくさんの人たちと帰国する船の中で、病気なのか栄養失調なのか、原因はわからないけど、
その小さな娘さんは亡くなってしまったと。
そして、その何日もかけて日本に向けて航海する大混雑した船の中に、
どうしてもその娘の亡骸を置いておくことができなくて、
海にその娘を投げたのだと。
自分の亡くなった小さな娘を、ただ魚の餌食となるのがわかっているのに、
海に捨てざるを得ない状況が、想像できるでしょうか。
そしておじいちゃんは日本に戻り、そのときの奥さんも亡くしてしまいます。
おじいちゃんは男の子と女の子を連れて、同じく戦争で夫を亡くし、子どもを抱えて途方にくれていた僕のおばあちゃんと出会い、連れ子どうしで再婚します。
僕の母だけが、おじいちゃんおばあちゃんから生まれた子供だったのです。
僕には伯父さん伯母さんが何人かいたわけですが、そのときまでそれぞれの血が繋がっていないことも知らなかったし、
おじいちゃんおばあちゃんが再婚だということも知りませんでした。
本当に、生きていくのに当時の人は必死だったわけです。
もちろん戦争の経験がある世代の方々が、その記憶を伝えていく重要さはよくわかります。
ただ、僕のおじいちゃんは、どうしても当時のことを思い出したくなかったのだと思います。
伯父伯母と母も、本当に仲のいい兄妹だったそうですし、
やっと訪れた平穏な日々に、とてもそんな思い出を話せなかったのかもしれません。
「言えない」ということが、戦争の忌まわしさ、恐ろしさを示していたんでしょうね。
ですから、僕がおじいちゃんから受け継いだ後世に伝えるべき戦争の記憶は、
「自分の子どもの亡骸を、船から海に投げたこと」だけです。
もちろん、色んな人に、たくさんの悲惨な出来事が、数えきれないほどあったと思います。
自分は終戦30年後に生まれていますし、実際は何もわかってないのだと思います。
それでも、平凡で戦争など無関係と思っていた家族に、自分の系譜に、
確かにそういう出来事があったのだと、忘れないように書いておきたいと思いました。
自分にも今二人の娘がいます。
いつか彼女たちもこの話を聞いて、そして僕と同じように、
自分たちが今当然のように享受している平和な日常の延長、ほんの少しの過去に、おじいちゃんの計り知れない心痛があったことを思ってほしいです。
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