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【散文】砂漠の宗教について、つれづれ。

 一般的に、キリスト教など一神教は「砂漠の宗教」と言われたりします。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など、一神教のことをアブラハムの宗教と言いますが、同時にそれらは砂漠の宗教であるとされます。

 ユダヤ民族が暮らしていたのは、エジプトとメソポタミアという肥沃な土地に挟まれた、荒野と砂漠の地域です。このような過酷な風土を生き、困窮の生活を送っていた人々でした。さらには他民族に征服され支配を受けるという境遇でもありました。

 一神教が過酷な砂漠で生まれたとすると、日本のような汎神論的な思想は、豊かな自然環境の中で生まれてくる発想です。森や河川の恩恵を受けてあらゆるいのちに神様が宿るという感性を育んできた者にとっては、砂漠の宗教の厳しさを理解するのが難しいかもしれません。

 キリスト教神秘主義のことをあれこれ思い巡らしているうちに、沈黙と砂漠ということを考えるようになりました。砂漠は過酷な環境で、気を紛らわすものもありません。それゆえ人間の孤独は際立ちます。沈黙の中で、ただ神と我のみ。聖書を読んでいても、砂漠や荒野は聖なるイメージを喚起する場所として度々登場していることがわかります。

 たとえば旧約聖書の中では、浄めと再生の場所としての砂漠が描かれます。新約聖書ではイエス・キリストが祈りのために砂漠に引きこもる様子が描かれています。初期キリスト教の修道僧には、自らすすんで砂漠の中で生活をした「砂漠の教父たち」と呼ばれた人々がいました。迫害から逃れて過酷な砂漠の中に隠棲し、欲望や虚栄と闘い、真実の道を求めたのでした。

 砂漠こそが求道者にとっての聖なる土地となるのは、「魂の暗闇を通って神との一致に到達する」という神秘思想に通じるものがあります。信仰の暗夜は「すさみ」とも言われ、無味乾燥を味わうとされています。すさみや無味乾燥として表現されるものはまさしく、砂漠というイメージと重なります。

 沈黙や虚無と向き合うことで私たちの魂は浄められ、霊的な変容へと導かれ、これまでとは違った自分自身として生まれ変わるのでしょう。砂漠がもたらす圧倒的な沈黙や虚無こそが、神の臨在を燃え上がらせると言っても良いかもしれません。

 キリスト教文化圏の詩人には、砂漠の静寂と神秘を謳っているものがしばしばあります。砂漠の神秘について、上記のような文化的な感性があるからなのだと感じました。

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