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ファルージャ(上)

///// まえがき /////

これは、2003年3月19日アメリカ有志連合軍がイラク攻撃を開始した後、最初にイラクへ入った4月28日の体験を元に書いたものです。5月1日にブッシュ大統領はイラク戦争終結宣言を出しますが、その後、イラク国内情勢は徐々に悪化していき、8月19日にバグダッドの国連事務所が爆破され、二十数名が亡くなり、イラクに派遣されていた国連関係者約300人の半数近くが死傷しました。イラク国内の情勢は悪化の一途をたどり、やがてISISが台頭する事態になりました。

イラクに入る直前に米大使館・軍からの情報を収集をしていたことは、Future War に書きましたが、もう一つ別の情報源は、ドレイミ族でした。ドレイミ族は、スンナ派の有力な部族で、イラクでもヨルダンでもエリートを輩出する非常に誇り高い部族です。

スンニー・トライアングルを通過していかなければいけない以上、そこの支配部族であるドレイミ族の情報を持たずに出かけることはバカげています。アメリカというよそ者の情報とドレイミ族の内からの情報を突き合わせて、自分の感覚に平衡を持たせたいと考えていました。

2003年4月28日から8月19日の間、私はアンマンとバグダッドの間を何度も車で往復しましたが、その後、私は一度もイラクに戻っていません。

Fallujah(ファルージャ)は、イラクの首都バグダードの西方に位置し、スンナ派ムスリムの多いスンニー・トライアングルの中核地域の名称。
スンニー・トライアングルとは、バグダードを南東の角、サッダーム・フセインの出身地であるティクリートを北の角、ラマーディーを南西の角として三角形の地域のこと。

宗教的にはシーア派が多く、民族的にはクルド人も少なくないイラクにおいて、スンニー・トライアングルは、スンナ派ムスリムのアラブ人が住民の多数を占める地域であり、サッダーム・フセイン政権の支持基盤であった。
有志連合軍による占領直後のファルージャ:ファルージャは有志連合軍による占領以降、アメリカ陸軍やアメリカ海兵隊の部隊が相次いで交代しつつ占領統治を行ってきた。ファルージャではスンナ派住民が多数を占めており、旧政権打倒後の米国の占領統治の拙劣さもあいまって米軍に対する感情は非常によくなかった。特に占領初期の2003年4月に米軍が重機関銃などを常設して基地として使用していた学校に集まった住民に対して発砲し15名以上を銃撃して殺害したことで反米感情は一層深まっており、地域住民が武装して反米闘争を展開し、米軍に退去を要求するデモが多発し、デモを鎮圧しようとする米軍と地域住民の間で度々武力衝突が発生、双方に死傷者が多数出ていた。
ファルージャの戦闘:2004年3月31日、ESS社のトラックを護衛中の四輪駆動車がファルージャ市内にて襲撃を受けた。車内にいた民間軍事会社ブラックウォーターUSA社のアメリカ人「警備員」(実態は傭兵に例えられることが多い。またイラク側から見れば米軍兵士と区別がつかないとされる)4人は即死した。そして、4名の死体は市中を引きずり回され、ユーフラテス河にかかる橋梁から吊り下げられた。 
この事件は燃え盛る車両やその脇に横たわる遺体、橋に吊るされた黒こげの遺体といった衝撃的な映像とともに世界中で報道され、米国内では1993年のソマリア首都モガデシュにおけるブラックホークダウンを彷彿とさせるものであった。米軍は犯人を司直の手に委ねることをファルージャ側に要求したが受け入れられなかった。こうして、アメリカ第1海兵遠征軍を基幹とする連合軍は市街地であるファルージャに対する包囲を含む広範な作戦をアンバール県にて開始した。
出典: 「ファルージャの戦闘」フリー百科事典『ウィキペディア』

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Fallujah

「砂漠の子らは自由の子だ。不羈奔放な彼らは、他から干渉されたり、その行動を掣肘されたりすることに我慢ができない。常に粗衣粗食で、見た目は実に貧相だが、内には稜々たる気骨がある。純朴でお人好し。困っている人を見れば、次の瞬間に自分の生活がどうなるかということなどは全くお構いなしに、もっているかぎりのものを乞われもしないうちからくれてやり、一時に数百頭の駱駝を屠って見ず知らずの客人を心のかぎり饗応する。・・・つまり簡単に言ってしまえば、底抜けのお人好しということだ。底抜けに人が好いことがすなわち高貴なのである。打算ほど砂漠のアラビア人に軽蔑されたものはなかった」(井筒俊彦著『イスラム生誕』33頁)

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 四大文明がいずれも大河の恵みを得て生まれたと教わったように私は記憶している。大河の恵みとは何だったのか? 大河の豊富な水があるから農耕に有利なのだろうくらいは考えたかもしれない。度重なる川の氾濫を制御するために測量術や土木技術が発達したというようなことも教えられたかもしれない。それから約三分の一世紀、私は文明と河について何も考えなかった。もっと正確には最初から何も考えなかった。左にある四つの文明の名称と、右にある五つの大河の名を線で結ぶことによって、文明の発生に関する私の知識はほぼ完結してしまっていた。

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 2003年4月。

 ヨルダンの首都、アンマンから車でイラクに向かって30分もすると早くも相当に茫漠とした荒野が現れる。さらに1時間ほど走ると、アズラクという小さな宿場町のようなところに到達する。こんなところにも古代ローマの、小さな、小さな遺跡がある。遺跡だらけの中東では、こんなものは大して価値を見出されないのか、整備もされずほったらかしである。それがかえって古さよりも身近な新しさを感じさせ、現代の廃屋のようにも見える。

 どういう経緯があったのか、この街にはドゥルーズ教徒とチェチェン人が住んでいる。誰かが誰かを迫害し、人の大移動が起こる。そんな出来事が何層にも積み重なり、忘れ去られ、また繰り返される。そんな時間の流れのどこかの一点が、地表に残ったかのように、まったく唐突に異種の人々の生活が現れる。日本中いたるところにある平家落人伝説からコーカサスの血を引く秋田美人、まったく系統の分からない言語を話すバローチの人々、青い目と金髪のアフガン人。戦争の捕虜として、あるいは征服者の残した血として、あるいは迫害からの逃避行の果てに、異種の人が生き続けている場所が世界には点在している。

 アズラクを通過し、そのようなことを考えながら、さらにいっそう茫漠とした景色の中を1時間半ほど走り続けると最後の街、ルウェイシッドに着くだろう。ここを越えると国境まではもう人の住む街はない。いや、正確には、この先、国境を越えても人の住む場所などずっとないのだ。いや、もっと正確には人は住む。街を作らず、砂漠を移動して生きる人々、ベドウィンの世界が続くのだ。

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 国境を越え、ひたすら東へ、熱い自然を冷たいメスが切り裂くように舗装された道が続く。砂漠は延々と、前にも後ろにも360度すべてに渡って、延々と続く。天を仰いで自分の座標を決定する能力を失った現代人には、前進しているのか後退しているのかさえ分からなくなる。そして考えざるを得なくなるだろう。この国が四大文明の一つが生まれた国だって? どうして、こんな過酷な地を人間は選ばなければならなかったのだ? と。

 砂と空。それだけを眺めて走る350キロの直線道は長い。砂漠に生きるとは、長い時間を生きるということなのだ。我々の生きる世界では時間はもはや流れることを止めたかのように寸断されている。時間は流れるのではなく点滅する。いつのまにか我々の人生は、瞬間的で断片的な反応の集積に変わり果てている。

 全方位を隙間なく埋め尽くす砂と空は、永遠という概念を可視化したものであった。永遠の中では、ある点から別のある点へ移動するという言葉はまったく無意味となる。始まりと終わりのない世界でどこからどこへ移動しようというのだ? 視界の果てに広がる地平線を茫然と眺め続けるしかない私は今永遠の淵に落ち込み、「私」でさえなくなる。永遠においていったい個にどんな意味があるだろう? 座標を失い、自己が融解し、現実は消滅する。いったい、このような場所でベドウィンはどのようにして生きていけるのだろうか?

「彼らの現実意識の唯一の支柱は感覚と知覚であり、それ以外に何物もなかったが、またそれだけに彼らの感性的認識能力は今の我々から見ると人間のものとは思われないほどの鋭さを持っていた。この強烈な感覚を通して受容された世界は、まるで天地創造の日のようにみずみずしく鮮明だった。
・・・彼らの感覚の鋭さ、特に視覚と聴覚の異常な発達に何の不思議もありはしない。鋭敏な感覚をもたないで、どうしてあの生活環境に生存して行かれよう。灼熱の太陽に焼ける、涯のない砂漠に漂白の旅を続けるこの遊牧の民が、もし遥か遠方にしたたる水音を聞きつけ、遥か彼方に仄かにうごめく動物の姿を発見し、あるいはまた地平線に巻起る砂塵を見て直ちにその場で敵の陣形まで察知できないようでは、彼らは忽ちに飲食に窮し、異部族に不意を打たれて絶滅するよりほかはないのだ」(前掲書48頁)

 ほんの5、6時間の快適なドライブで早くも、とうの昔に鈍く退化した感覚をさらに弛緩させ、存在の手がかりを失い、静止する宇宙の中で融解しつつある自己に突然、爆発的な衝撃が走る。視覚に対する痛烈な衝撃。色彩の衝撃が。地平線に現れた緑。たった一つの色が永遠を打ち破って炸裂している。突如、始まりと終わりのある世界が、生命の世界が、復活する。私の心の中で、永遠の時間の中で静止していた車が猛烈な速度で地平線に向かって突進し始めた。緑はどんどん増殖し、あっという間に砂色であった地平線は緑一色となる。圧倒的な生命の権力がそこに存在する。これは祝祭だ。砂の宇宙に緑の焔が立ち上がっている。

 無限から有限へ、無機から有機へ、永遠から生命へ、そして失いかけた自己の修復へと、私は向かい始める。永遠とは死の言い換えであり、例えば、“永遠の生命”などというのは根源から破綻した概念であったことを確認する。

 太古、駱駝の背に乗って無限を旅しながらも、その鋭敏な感覚によって現実をつかみ続けた砂漠の民がこの緑に出会った時の衝撃はいかほどのものであったろうか。緑がイスラムの色とされる理由を私はまったく知らないが、この砂漠で生まれた宗教である限り、直感的には緑以外は考えられないと私は思う。

 やがて東へ続く一本道は砂ではなく、緑の海を貫通する道となる。最初の緑の衝撃から半時間も走れば、この緑のそもそもの源に出会う。そこに大河があるのだ。澄んだ水が静かにユーフラテス川を流れる。砂の世界がここで完全に終わり、生命の沸き立つ世界が始まる。この河を渡れば、向こう岸には人の住む世界が広がっている。そして、あと半時間も走れば、バグダッドだ。

 文明と大河が今はじめて、鉛筆で書いた線ではなく、自分の感覚を通して繋がる。砂漠を旅した果てに、この緑を、この大河を発見して、歓喜にふるえなかったものはいないだろう。最初にあったのは、人々の歓喜なのだ。たくさんの人が集まっただろう。土地をめぐって争いもしただろう。戦いがあれば復讐もあり和解もあっただろう。人が増えれば、ルールも必要になっただろう。まず、大河の圧倒的な生命の魅力で人は集まり続けたのだろう。私は今、そうやって大河に魅きつけられた人々と同じ感覚を-それがたとえ相当に希釈されているとしても-共有しているのだということに疑いを持つことができない。そこからすべては始まったのだ。

 私はしばらくユーフラテス川にかかる橋の上に立ち、河の流れ行く彼方を見ていた。社会科の教科書に出ていたあれとしてではなく、古代の人々が見ていたのと同じ河として、今ユーフラテス川は自分の目の前を流れている。数千年前、この大河に出合うという衝撃を経験し、ここに生命の限りない希望を見た人がいたのだろう。数千年という一瞬を隔てて、私もまたその一人になっていた。文明と大河の関係が自分の身の中に静かに浸透し、落ち着いていくのを私は待っていた。

 橋を渡れば、文明の世界が始まる。その起点となる場所にも地名があるはずだ。ここを離れる前に私はそれを知っておきたかった。

「向こう側の町は?」と、私はドライバーに訊いた。

「Fallujah」と彼は答えた。 

(JMM 2004年11月12日配信) 

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