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紛争再考

///// まえがき /////

これも、Future War と同じく大学で教員をしていた時に書いたものです。2004年4月にJMMから配信されました。当時、私はいくつかの出版社から戦争とか人道支援に関して書き下ろしの依頼を受けていました。その準備のために、片っ端から世界中の研究論文を読んでいた頃です。

非常によく整理され、要領よくまとまった論文はたくさんあり、この分野の研究に関しての見取り図が自分の頭の中に徐々に出来ていきましたが、どうも何か違う、という気分がずっと残っていました。

その頃、気にかかっていたのは、戦争でも国際人道法でも国際協力でもなく、相撲のことでした。

イギリスの大学にいた頃、アメリカ人の教授が近世日本思想について公開講義をしたことがありました。そこで、その教授は相撲の話を持ち出しました。その頃の私の専攻は法の数量分析という、今ならそんなたいそうな名前をつけなくても普通に行われているような分野でした。法にも数学にも煮詰まる私は第二専攻で上記教授の下で朱子学を勉強していました。公開講義という彼の晴れ舞台を私は当然見にいきました。

相撲には開始の合図がない、そこには決定する者とそれに従う者という構図がない、これは西欧近代のデカルトを基礎にする思想の枠組みから見ると驚異的なものだ、

そんな話だったと思います。この話の入り口に彼はロラン・バルトの『象徴の帝国』を引用したと思いますが、私は読んでないので、ロラン・バルトが言いたかったことが何なのかは知りません。

しかし、相撲には開始の合図がないというのが非常に強く印象に残りました。こんなスポーツ、他に思いつかない。戦う二人の間にどうやって、両者に文句のない形で、さあ、開始って合意できるんだろう?考えれば、実に不思議でした。近代学問は全て個を析出して、それを前提に組み立てられていたし、主体と客体というはっきりとした区別が存在するものとして世界を見ていたと思います。

でも、そう言えば、夏目漱石って日本に個なんてないよって苦しんでたし、量子力学をかじってる人は主体と客体?何それ、古ぅって言ってたし、ニューアカブームはそういう近代学問の枠組みに異議申立てしてたわけだし、相撲の発見はあるべくしてあったんだろうと思います。ただ、私は相撲の話をその後、深く追求することもなく、長い間忘れていました。

アフガニスタンに行くようになったのは90年代後半ですが、村の長老の寄り合いにしばしば出るようになり、私は最初、その不効率さにイライラし、いったい何やってるんだ、ほら多数決とかないの、パッと決めちゃいましょ、パッとみたいなノリでした。

決定しなければいけないのは、だいたいどこに学校を作るかとか、簡易水力発電機をどこに設置するかとかそんな話です。物理的な位置が長期的な利権とからみかねないので、難しい話になります。

そういう村は都会のカブールから何時間もかかるところにあるし、宿も何もない村で寝泊まりし、食料も現地調達なので、村に滞在するとしてもせいぜい1週間が限界です。

ところが、これじゃあ、何にも決まらないよって諦めた頃に、ニコニコと満面の笑みをたたえた長老達の使者が「決まりました」と伝えにきます。何がどうなったのかさっぱり分からないのですが、ともかく「コンセンサス」が発生したわけです。

これ、相撲じゃないかとようやく思い出したわけです。彼らは西欧近代の思考の枠組みとは全く違う世界で生きているんだと。そこから、あらゆることを見直すことを始めていました。『紛争再考』はその一旦の記録です。

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