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Column #16 昭和、平成、令和、そして軽音楽

平成が明けた時は中学1年生。年明けはいつも家族でスキーに行くのが恒例だったので、その旅先の宿で小渕さんが「平成」という字を掲げるのを家族そろって眺めた。その瞬間を今でもはっきり覚えている。昭和64年は7日間で終わった。

2年後にはバンドを組み、そのバンド「BLUE BOY」でデビューしたのは、平成5年の夏。平成10年に解散ライブ。その前年の平成9年にHARCOとしてソロビューして、平成29年の最後にHARCOを終了した。

西暦でしか覚えてなかったから新鮮なのだが、今までの自分のミュージシャン人生は平成そのものだったのだと、平成最後の日になって実感。

でもそのミュージシャンとしての基礎を作ったのは、まぎれもなく昭和だ。昭和50年10月16日に生まれ、昭和55年の同じ日、5歳の誕生日に、ピアノ教師であった母は、僕にピアノを教え始めた。上の写真は昭和58年4月の発表会、7歳のとき。これが初ライブかもしれない。

その後、中学に入って運動部に熱中して一旦やめてしまうのだが、それまでは常に楽しんでピアノを弾いていたという。でも色んなコンクールに出ては、最初の予選で落ちてばかりいた。

どちらかというと弾くことよりも、ピアノの音を聴いて楽譜に書く「聴音」という作業、いわゆる「耳コピ」が得意だった。これはミュージシャンという職業になった今でも欠かせない、音を捉える感覚を鍛える作業に当たる。

だからなのだろうか、音をゼロから生み出していくことよりも、すでにあるモチーフや何かしらの音楽を、自分のなかで編集していくことの方が好きだ。

そもそも「創作」という作業も、どんなジャンルにしろ、すでにいくつもの作品が世の中にあるわけで、そういった世界中の価値観の延長線に、自分の価値観をほんの少し足しているだけ、という気持ちが強い。なにもかもゼロから作ろうと思うと、行き詰まることばかりだった。

ところで、昭和の時点では、つまり小学生の頃は、雑誌の編集者になりたいと思っていた。とくに小学校の高学年の頃は、趣味で雑誌をよく作っていた。

本当は小説作家になりたい気持ちがあったような気がする。でも子供ながらに、それは自分にはおこがましいことなのではと考えていて、編集やライター、とにかくもっとカジュアルな仕事が向いているような気がしていた。

平成になってその雑誌が音楽になっただけなのかもしれない。つまり音楽のんかでも、クラシックは自分には向いてなくて、もっと軽いもの、文字通り「軽音楽」が自分にはハマった。BLUE BOYは、僕が中学校と塾の同級生をそれぞれ紹介して出来たバンドなのだけど、そのBLUE BOYを続けながら、高校に入学すると軽音楽部にもまっすぐに飛び込んだ。

平成の初め、つまり自分の中学時代は、クラシック以外では歌謡曲とロックくらいしか知らなかった。高校に上がると、まずハードロックにハマり、次にジャズ(特にドラム)、それとソウルミュージックもよく聴いていた。

イギリスのベイシティローラーズにもハマった。ジャズを勉強して一旦は難しいコードをたくさん覚えたのだけど、すべて一旦すてて、そのバンドに自分たちを重ね、分かりやすいポップソングを作ることに集中した。

高校3年の夏、17歳で運良くメジャーデビュー。卒業とほぼ同時に都内でひとり暮らしを始める。そこではCSアンテナをベランダに設置して、MTV JAPANを毎晩のように観ていた。そのMTVの中でもマニアック寄りの特集番組に注目し、辺境の音楽がこの星には山ほどあることを知る。ひとり多重録音、ワールドミュージック、現代音楽。最終的には「スペースバチェラーミュージック」というものに出会って、その音楽性を意識したHARCOが生まれといえる。

時代もそれこそ、すべてのジャンルが一回りして、懐古主義や、その主義を皮肉りながら上手に遊んだ人たちが光っていた、90年代。あるときタワーレコードで一気にたくさん買ったCDたち。そのジャンルがどれもちぐはぐなことに、自分で笑ったりもしていた。

そして平成の後半になって、自分がどんな音楽に一番心を動かされるのかが、ようやく分かってきた。BLUE BOYを解散してHARCOに専念し、当初は不条理な音楽を目指していたのだが、その熱は3〜4年ほどで幕を閉じ、そのまま名前を変えず、もっとシンガーソングライター然とした落ち着いたものを好んで聴いたり、作るようになった。

今になって思うのは、自分が聴きたい音楽=自分の心が落ち着く音楽であり、自分でもそういった曲を生み出し続けていく使命があると思い続けていたのでは、ということ。そんな平成の後半だった。つい突っ走りがちな衝動性のある自分だけど、そこを「まぁまぁ」となだめて、ちょっとだけ冷静になって作る作品が、自分の場合はより世間に通じるのだと思っていた。同時に手応えもあった。

しかし本名名義になって1年半経って今思っていることは、そうやってわざわざ見えない何かと中和させようとせず、自分の突っ走るまま放っておくというか、そういった作品も面白いんじゃないかなぁ、ということ。

そういった衝動性を、手段、工程に置き換えたら、どこかクレイジーな感覚を伴った編集作業に没頭できて、未知の世界に突入できんじゃないか。最近、そんなことをよく考えている。この年齢から突っ走るということは、暴走中年ということになるのだけど...…。どうか夜露死苦。

今、あらゆる感覚がゼロに戻っているのだ。良い意味で。なんだかセカンドアルバムは、ファーストアルバムと全然違うものになるような気がする。あれだけピアノ弾き語りの続編を作ると言っていたのにね。