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鑑賞レビュー:出光美術館 江戸の美術 軽みの誕生 又兵衛の「光源氏 野々宮」を見に行く

 10月にはいって暑さも落ち着き、歩くにはいい季節になってきました。

夏の最中に訪れた根津美術館の展覧会「物語の絵画」で見た妖怪退治図屏風を描いた絵師、岩佐又兵衛(1578~1650)のことが気になり、ほかの作品も見たいと思っていたところ、丸の内にある出光美術館で又兵衛作の「源氏物語 野々宮図(重文)」が展示されるというので、その展覧会”江戸の美術 軽みの誕生”を見に行ってみました。(会期 2023年9/16~10/22)

●展覧会の主題について。

 展覧会は、江戸時代の絵師 狩野探幽(1596~1580)の「絵はつまりたるがわろき(画面に詰めて描くのはよくない)」という言葉に端を発する余白の美学をテーマとしており、展覧会構成はタイトルの意味を知るとわかりやすいものでした。

展示作品は出光コレクションから 伝雪舟等楊(1420~1506)作 四季花鳥屏風 伝土佐光信(1434~1525)作 四季花木図屏風 など室町時代の作品を、江戸以前の「つまる」絵画の例として、そして狩野探幽(1602~1674)をはじめとした江戸時代の「つまらない」を美的価値とした作品として対比させ、江戸からはじまる表現様式の変化をわかりやすく展示しています。
(作家名が”伝 とされているのは室町時代の作品については古すぎてわからないことが多いとのこと。はっきりとした記名のないものは作品の様式や表現方法から作家を割り出していくしかないとのことです)
この展覧会の展示作品は屏風絵、掛け軸が主な展示でしたが、酒井抱一(1761~1829)の扇子や野々村仁斎(生没年不明 1600年代後半?)や古九谷、柿右衛門などの陶器などもありました。
また、俳句に「軽み」を求めた松尾芭蕉(1644~94)の発句自画集などにより、芭蕉の俳諧思想などとも照らし合わせ、江戸時代においての余白やゆとりをよしとする価値観や美意識について知る機会になり得ました。

●岩佐又兵衛作 光源氏 野々宮 

今回一番見たかった岩佐又兵衛の描いた「源氏物語 野々宮図」はよくある絵巻物ではなく水墨で描かれた一幅の掛け軸。源氏物語のうち「賢木」の一場面で、光源氏とその思い人である六条の御息所との別れの場面だとされていますが描かれているのは野々宮の鳥居と光源氏、その付き人のみです。

なるほど、人物が右下とは確かに余白が描かれています。

以前、銅版画を習っていた時に先生に「余白」は何もないという事ではなくて「つくりこむ」のだと教えていただきました。銅版画の何も書いていないところにはいったんインクを乗せた後に布や手でぬぐいながら空白の画面をつくります。文学でいうならば「行間」ということでしょうか?
その空間は画面上のゆとりであったり、画面に方向性やリズムを持たせるためであったり、その先や描いていない部分に何かを感じさせるための工夫であったり、様々な表現として構成されて行きます。

この絵画では、画面上のモチーフは墨の濃淡のみで描かれ、主人公の光源氏は絢爛な絵巻物とは異なり、優美でありながら少し寂し気。
源氏と付き人の二人を画面の右端下方に描き、左と上方は大きくあけられていますが、人物の背後には右下がりの方向で、画面を横切るように大きく野々宮の鳥居がぼんやりと描かれています。源氏も付き人も又兵衛の特徴である面長で大きな顔ではありますが、空を仰ぎ物思いにふける面差しは左上の虚空に向かっており、その様子は切れ長のまなざしと小さな口元が優美で切なげ、これはこれから別れゆく御息所を待っているのだろうかと思いました。

また、画面全体を見ると描かれているのはぼんやりとした鳥居以外には風が吹いているように見えるさっくりとした薄墨の筆跡と二人の人物のみ。
人物のみが細く流麗な筆遣いながらはっきりとした墨黒で描かれており、しぐさや衣装の優美さが伝わります。なかでも小さいながらも、顔のパーツは丁寧に描かれているので力なく虚空を仰ぐ表情が読み取れ、一般的に絵巻物などで描かれている光源氏の、引き目で表情のわかりにくい表現とは異なります。

しかし、この絵の源氏のたたずまい、画面右下の源氏は左斜めを向いて力なく立っているのですが、直衣の前身ごろをの下のほうを両手でちょこんとつまみ上げています。直衣の裾を持ち上げてる絵ってちょっとみたことなかったのですが、直衣ってこんな風に着るのだろうか?
ちょっとかわいい表現です。

●松尾芭蕉筆 発句自画賛 発句短冊、懐紙等

今回見た作品の中で特に目にとまったのは”松尾芭蕉”の発句集でした。

今回展示されたのは「みちのべの」「蓑虫の」「野をよこに」「いざ子ども」「やまさとは」「はまぐりの」の6点。

蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 

松尾芭蕉 みのむしの

は一度読んで忘れられません。これは友人を自宅で開催する「蓑虫の声を聞く会」に誘っているお手紙だということ。
でも、「蓑虫の音」ってなんだろう?と調べると、清少納言は、蓑虫は「ちちよ、ちちよ」と鳴く、と書いているらしくそれになぞらえての俳会だったのかもしれません。おしゃれ!

俳画、水墨に淡彩で着彩された絵の右上には端麗な文字で句が描かれ、がめんのどこかには”はせを”と仮名文字で記名がありました。

”はせを”?と最初は何のことかと思ったのですが、読んでみてすぐに”芭蕉”のことだとわかりました。これらの作品の中で芭蕉は自筆の作品に”はせを”と記銘していて急に脱力します( ´艸`)
これが俳句と異なる俳諧の「諧謔」の一端であるかとも。漢字の持つ重厚さを避けた記名は芭蕉の飄々とした句にぴったりです。サインすらもビジュアルの一端であるとの認識はさすがです。

描かれている絵は簡素ながらも達筆、しかし説明的ではなく素朴な表現で句を補足しており、暖かく親しみを感じます。

なごむ~( ´艸`)

印刷物でしか読んだことのなかった”松尾芭蕉”の句とは印象が異なりました。
芭蕉の生きていた時代の人々は、描かれた句を読んだときに私たちが今感じているのとは全く違う感じ方をしていたのかもしれないと想像しました。

現在私たちが知る印刷された文字情報のみでも芭蕉の句は十分に視覚表現的です。俳句についてしることはありませんでしたが、俳聖 松尾芭蕉についてももっと知りたくなりました。

過去の展覧会より福田美術館へのリンク 作品画像は無いので芭蕉自画の参考資料として→
https://fukuda-art-museum.jp/wp/wp-content/uploads/2022/05/20220602_%E9%87%8E%E3%81%95%E3%82%99%E3%82%89%E3%81%97%E7%B4%80%E8%A1%8C%E5%9B%B3%E5%B7%BB_PR.pdf

●雑記:アートに触れることについて。

私は、展覧会にはなにもわからなくても時間があればとりあえず行ってみることにしてます。
原田マハさんが小説の中で書いている「友だちに会いに行く」のとはちょっと異なり「あたらしい出会いを求めて」いくことも。

事前になんの情報もなくとも作品に力があるならば実物を見て興味を持ちえます。作品をよく見て、自分がなぜそれに惹かれたのかに向かい合って、
そのうえで知りたいことを調べていきます。

誰かに出会って、その人のこと知り、もっと好きになっていくように。

また、芸術作品はどんなジャンルのものであれ過去に生きた人の「命の輝き」の残滓のように感じています。
古い、わからない、など興味を持てなかった対象の一つでも自分の琴線に触れるものがあれば今なら検索で情報を得られ、そのうえでさらに深く知っていくことができる楽しい時代です。

日本の古典美術は残念ながら著作権が保護されていたり、撮影が禁止されていて画像を添付できないものも多く、また繊細過ぎてインスタ映えがしないのでこちらから出向かないとそのよさを知ることができないというめんどくささはありますが、私設美術館のコレクション展は海外招致の企画展よりも安価な料金設定となっているのでご興味を持たれた方はお近くの美術館をお出かけ先に選んでみてくださいね。

では、また。










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