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愛してくれとは言わないが、美魔女がそんなに怖いのか【後篇】

 さて、こちらは、美魔女を通して、加齢と美と女性性について思考したコラムの後半です。前編はこちら。約10年前、cakesにて連載していたアーカイブです。当時は、美魔女について心の距離を感じていて、あれこれ考察しておりますが、今はタイプや表現方法は違っていても、もう少し親しみを感じてもいます。
 私自身が年齢や経験を重ねて「みんな同志!」のような気持ちになっていることもあるし、よく知らないからこそ、怖かったもの(や人)について、経験や思考を重ねて、私なりに理解できるようになってきたからかもしれません。
 そして、今になって読み返してみると、美魔女という存在よりも、美魔女という存在を扱う世評にこそ、モヤモヤしていたんだなと改めて。皆さんはいかがですか?(本コラムは、期間限定、無料公開です)

 鮮烈な登場以来、世間でバッシングされ続ける“美魔女”。その名付け親である『美ST』は2011年3月号に特集で〈許される“可愛い”〉を探るべく、40女のNG行為を認定したそうです。大人の女はきれいでいたいのか、かわいくいたいのか。果たして、その美しさは誰のためのものなのでしょうか。
 この道20年のベテラン女性誌ライター芳麗さんが贈る“ありふれた女”たちのための教科書です。

美魔女の好感度はなぜ低いのか? 

 ここで、“美魔女”の定義について改めて。名付け親の『美ST』的には、「年齢という言葉が無意味なほどの輝いた容姿」「経験を積み重ねて磨かれた内面の美しさ」「いつまでも美を追求し続ける好奇心と向上心」「美しさが自己満足にならない社交性」という条件を備えた女性を「美魔女」と定義しているという。
 要は、「全知全能の中年美女」である。

 しかし、世間一般の美魔女のイメージは、まったく異なるものだ。美魔女は、登場してから現在に至るまで、世間でバッシングされ続けている。今年、放映された『TVタックル』の美魔女特集での批評も辛辣なものだった。

「何が気持ち悪いってその年になっても、まだ選ばれる花でいたい。男から手折られる花でいたいという感性のあり方がいや」(作家・湯山玲子氏)、「いくら若作りしてもカニカマはカニカマ! カニにはなれない」(作家・岩井志麻子氏)とにべもない意見が続出。

 とりわけ、男性からの目は厳しい。同番組に出演した小藪千豊氏の「いい年した美魔女をチヤホヤする国に未来はない」。過去に他の番組でも「50で30に見えるんだったら、30の女でいいんだよ」(有吉弘行氏)、「50代になっても必死になって若い頃の“ナイスバディ”を求める女性がすごく辛そう」(今田耕司氏)などなど。それぞれの目線から美魔女について語り、嫌・美魔女派から喝さいをあびていた。
 周囲の男性も、バッシングとまではいかずとも、「美魔女を本気で好きになることはないと思う」と声をそろえる。「性の対象にはなるかもしれないけど」とも。ケンコバさんだって、美魔女の努力を認めて擁護はしていたものの、「積極的に好みとまでは言えない」と語っていた。

 って何だかもう全方位的に批判されている。美容雑誌にも愛をもって携わる40女としては、書いていてつらい。
 しかし実はその指摘の本質によくよく目を凝らすと、「男に媚びていて依存心が強そう」「自己中心的にみえる」「劣化に抗う努力が痛々しい」など、実は年齢そのものにはあまり関係ない。歳をとっているがゆえに、その粗がよく目立つだけである。
 つまり、ここまであらゆる人の癇に障るのは、美魔女が“女の業”をすべて背負ってしまっている(ように見える)からなのである。

 JKだって、1日の8割は「可愛くなりたい!」と思って、メイクに2時間かけたり、毎日1時間半身浴したりする。モデルのマギーがお風呂あがりに11種類の美容液やクリームをぬっている話やダレノガレ明美が1日に6時間ウォーキングした話は、がんばってるんだ、と賞賛を集める。
 でも、アラフォー以降の“いい年した女”が、同じように美容にうつつをぬかしていると批判を浴びる。社会人として、親として、規範となるべき世代なのに、「美しくなりたい!」なんて己の欲望に忠実すぎること、それを隠そうともしないところが下品に見えるのだろう。
 歳を取ると、未熟さは醜さに変わり、「いい大人」からずれた分だけ、悪目立ちするのだ。少なくとも他人の目からは。


藤原紀香は美魔女だが、永作博美は美女である?

 “美魔女”と“美しい熟女”の違いについて考えてみる。たとえば、45歳の永作博美は、年齢を超越した美しさを備えているけれど、“美魔女”だとは言われない。美STの表紙に登場しているにもかかわらずだ。
 でも、44歳の藤原紀香には美魔女的な匂いがする。一般の中年女性でも、美しい人はたくさんいるけれど、“美魔女”的な人とそうでない人がいる。両者の違いは何か?
 それはシンプルに “セクシーな女性性”をどれだけ声高に主張しているか否かではないか。

 超越した美を誇示することは、人に威圧感を与えてしまうのだ。そして、年甲斐のない色気の主張は、妖しくもあり、怪しくもあるのである。
 本来は、いくつであろうとも“美しさ”には価値があるし、ケチをつける余地はみじんもない。ケチがつくのは、美のために払った“代償”や美を誇示する“態度”だ。

 小林秀雄の『美を求める心』が心をよぎる。

 言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、ぼくらが野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。

「なんだ、“45歳”の“美魔女”か」と認識した瞬間に、人はその美を見ずに、長くのびた影ばかりに目がいくようになるのだ。

“可愛い女”と愛でられないとダメなのか?

〈いつまでも、可愛い女だと思われたいけれど、「かわい~」と「こわい~」は背中合わせ。どうすれば、イタくも怖くもない、許される“可愛い”が手に入るのか〉

 『美ST』が2011年3月号に特集にしたのが「大研究・“一生可愛い女”テク!」はこんなテーマだった。
〈許される“可愛い”〉を探るべく、専門家や一般の年下男性やギャル代表に取材して、パッツン前髪、ミニスカ、ド派手ネイルなど、40女にはNGの行為を認定。永遠に可愛い女優の八千草薫さんのインタビューや、作家の高橋源一郎さんの寄稿もある。
 ここでいう「“可愛い女”になりたい」は、「ピンクやフリルの服を着たい」という意味ではなく、「好感度をあげたい」「愛されたい」と同義語だ。

 本企画を読みながら、美魔女の……というか、女の哀しみを思った。〈許される“可愛い”〉ってなんなのか? 私たちは、誰に許されなくてはならないのか。

 “美魔女の称号を得ること”と、“可愛い女だと愛でられること”は、まったく異なるというか対極にある。「キレイですね」というほめ言葉は、客観的な目線で語られるものであるのに比べて、「可愛い」は「愛しい」と同様に主観的であり、個人的な好感をともなわないと発せられない言葉だからだ。
 何よりも己の美に懸命になっている(ように見える)美魔女は、むしろ、他者に好感をもたれる可愛い女にはなりがたい。

 そもそも、どれだけ美しくなっても、愛されるとは限らない。美魔女コンテストのグランプリが、日本一の愛を勝ち得ている40代ではないのだ。

 そんなこと、きっとみんな分かっている。それでも、「女は若く美しいほど価値があるし、愛される」という刷り込みが、心の奥に深く刻まれてしまったままの女は多い。それを刷り込んだのは当然、男であり、社会である。雄たちの無闇な欲望や世のえげつない風潮が、魔女のトラウマをうみだしたのだ。

 不肖ながら私をとっても、社会人生活も20年近く。女である前に、人間として認めてもらえれば、十分だと思っている。でも、そうは問屋がおろさない。

「20代の頃はもっとキレイだったんでしょうね。モデルさんとかしてました?」

 先日、仕事先で出会った初対面の男性に唐突にそう言われた。最後の“モデルさん”は、私が高身長ゆえのリップサービスだとして、全体的には失礼極まりない言葉だが、当の男性はまったく悪気がなさそうだ。むしろ、気を遣って褒めたくらいの無邪気な笑顔を向けてくる。

「そうでもないです。ありがとうございます」と反論もせず小さな笑顔で返した。

 この程度のことは、わりとよくあることだからだ。若い女こそ絶対的に美しいという価値観も、それはそれでかまわない。けれど、もし、その価値観を押しつけてくる人物が、同じ口で美魔女の悪口を言うならば、それにはきっと腹が立つ。

大人の女は、誰のために美しくなるのか問題


 ほのかな悲しみと怒りを諦念へと変える前に問いたいのは、“私たちは誰のために美しくなるのか”だ。

 それは絶対的に“自分のため”だと思うのだ。大人の女ならばなおのこと。
 仕事やデートにおいてメイクすることは、相手への配慮でもある。40過ぎても美肌やナイスバディを保てれば、夫や恋人がよろこぶのはもちろん、周囲だって多少は親切にしてくれるだろう。でも、それだけのこと。
 圧倒的な美なんてプロでなければ必要ない。

 ウワサ年齢50歳の美容番長・シルクさんにインタビューした折、印象的だった言葉がある。
「これからも恋はしたいけど、自分を疲弊させる男と恋愛はしない。自分の組んだ美容スケジュールを崩すような恋は人生に必要ない」とキッパリと語っていた。自己中心的に聞こえるかもしれないが、私は潔くてカッコいいと思った。美容は他人のためならず、自分へのいたわりであり、愛だ。

 女優の宮沢りえはまだ30歳くらいの頃のインタビューにて、「若い頃は“美しいと思われたい”だったけれど、“今は美しくありたい”と思う」と語っていた。
 花は本能で咲き乱れる。それは虫をよせつけはするが、虫がいなくても静かに咲き誇るのが花である。

女の頬はずっと紅くていい

 ハードな仕事を終えて帰宅した魔美は、疲れ切った心身をいやすようにナノスチーマーのスイッチをオンにした。こうしてやわらかなミストを浴びていると、自分という花に水をあげているような気がして心が潤う。

「美容ってストイックなとこもあるけど、楽しいし、気持ちいい」

 肌も心もほどけていく中で「頬紅は女の顔の肝だよ。ずっと紅くしてなさい」という祖母の言葉を思い出していた。

 すでに美容マニアだった女子高生時代、魔美は大好きな祖母からたくさんのことを学んだ。祖母は生涯、化粧をしていた人だった。その女心の在り方を美しいと思う。

 きっと私もおばあちゃんになったら、今までと同じように、美容にかまけている。いつか美魔女とも呼ばれなくなる日がきても、私は私という花をずっと愛でていく。

イラスト:ハセガワシオリ


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