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雑多な雑感――NPOの戯言⑫

《たぶん普遍的なテーマ⑤》 健康と不健康
 病院嫌いの人は多いと思うが、わたしも然り。なので進んで受診するなど沽券にかかわるほどの精神的苦痛の種である。にもかかわらず健康診断に2年連続で足を運んだ。第一の理由はタダだったから。第二は最初の検査結果の紙切れに「あなたは不健康です! そんなことでどうするんですか! 正気ですか!」と示唆されたから。
 世は健康ブームどころか健康のためなら死んでもいいという時代だ。健康は大事という若干の自覚はあった。しかし吞兵衛とは酔いの継続を生きるよすがとする者の謂いである。しかも動かない。普通、山中の田舎人は草むしりなどに精を出す。ところが長年の都市生活に馴れた身に草むしりは苦行でしかない。道理である――身体が痛んでいるということ。
 100歳まで生きたいなどとは思わないが、この先、痛い、苦しい、挙句に入院というのは是非とも避けたい。医学的証拠はわたしに「動け!」と言う。科学的見地を尊重してはいる。ただ、動物は本質的に怠惰であるという考えを撤回する気もない努力嫌いでもある(その代表というほどでもないと思うが)。いざとなれば神頼みも厭わないし、何とかなるのではという淡い期待もある。科学か神か。
 かくしてディレンマに陥る。しかしディレンマは解けるもの――病院を避けるにはやむを得ない努めも必要である。結局、科学の「託宣」を賜ることにした。“お告げ”に従って実践し始めたのが踏み台昇降という実に面白くもない反復運動。シーシュポスの神話を想起するほどの単調さ。A・カミュは人生そのものを比喩化し反抗を説いていたはずだが、わたしの場合、そのような深遠さからはほど遠い。とりあえず修業の意味をちょっぴり知ることができた次第である。ただし吞兵衛を止めることはできない。
◆注:病院など「みんな嫌いだ」と思った人は甘い。病院の待合室が一部だが憩いの場であることに疑いの余地はない。母の病院通いで思い知らされている。人によって違うだろうが3時間待って3分の診察というのが当たり前の世界である(眼科の場合)。隣席の人と話でもしないとやってられない。はた迷惑でなければ、いい事ではある。

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