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この世のご都合主義、自分次第

私は思う、相対的とは、自分軸や自分中心と言い換えられるのではないか。

ある意味、時間や空間は己中心を常としており、自分感覚に相対している。

客体としての世界、そして主体の自分があるのではなく、あくまでも自分があって、世界がある。ただし、これは自分が動いている場合の話。

一方で自分が止まっている場合は、物理的に常識だとされているニュートン力学的な法則によって、時空間がそこに在る。

つまりは、自分が動いているかそうでないかによって、世界が相反する結果となり、両方が同時に重なりあって存在している状態。

これらが特殊相対性理論で言わんとする本質ではないか。

この世界の物質を構成している素粒子たちのその振る舞いからそのことが観測できる。

一見すると頭がこんがらがる仕組みもなんのことはない、自分にとって実に都合のいい世界なのではないかということ。

何故なら自分が動いているときは、時空間が何だかよく分からない感じになって、止まっているときは、一定の法則で分かりやすくなる。

この単純な仕組みを自ら複雑に考え余計に混乱するのが人の常。

例えばこうです、
寝るときに、明日はこういう予定で行こう。
仮にそう翌日を断定し思い巡らせながら寝ったとします。
そうして翌日になって起き、いざ実際に前日の予定通りに行動し始める、するとどうしたことでしょう。その日一日が終わる頃には、もう何一つ当初の予定通りではないではありませんか!
昨日あんなにも一生懸命考えて頑張って行動したのに、何で!

このようにこの世は行動すればするほど、刻一刻と自分の思い描いた斜め上の結果を返してくる、これこそが無常。そんな非日常の中を人間は生きていることがわかります。

自分が思い通りの人生を生きられていないならそれは幸いなことです、だってそれは自らが行動し続けていることを実証していることになるから。

この事にアインシュタインは100年以上前に気づき。弘法大師空海は1200年以上前に、お釈迦様に至っては、2500年以上前に気づいたとされます。

インターネットは勿論、スマホやコンピューターの類いすらない時代、これは本当に凄いこと。

幸いなことに私たちには偉大な先人たちの叡知が脈々と受け継がれています。でもその素晴らしい情報も曇りなき眼で見定め、自分の人生に活かさねば、何物にもなり得ません。

この世は結局、自分次第のご都合主義的な仕組みであり、すべからく自分が起こしている現象世界なのであろうということ。

目に見えぬがゆえに目に見えるものの愛しさよ

この世では動き続けるものには時間も空間も歪み、万物のそのすべてが何かしら変化する。ただしその様子を物理的に観測する術はない。

観測するためには自分が止まらねばならないから。

量子の世界を観測するのがおよそ困難なのは、例えばaからbに粒子を移動させる様子を観測したいと思い、いざ素粒子を手ですくって移動させようにも、粒子があまりに小さすぎるため手を貫通しあっという間に無くなってしまいます。また仮に頑張って手の上に乗せることに成功したとしても、aからbに移動させる間の微細な衝撃にさえも粒子は耐え切れず何処かに飛んでいってしまうのです。

そのミクロ世界のもどかしさはまるで、恋する二人がすれ違うようで。

観測しえぬからこそ、愛しい我が君の如く。

その胸の内に秘めたる淡い思いの如し。

自分を信じて生きることが試されている世界。

たとえ目に見えずとも信じて行動し続けた者に自分だけの幸せがやってくる。そんな不安定で、不確実で、複雑で、あいまいな世界。

心と体がお互いの存在に気付かずにすれ違っている。

まるで自分や愛するあの子のうつろいやすい心模様。

つまりまだ何も確定していない世界、確定させるのは自分自身。

だから今こそその心響かせよ、大きく掻き鳴らせ!

この世はすべて自分の都合や御心次第だ。


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