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「先生ガチャ」について現役高校教員が思うこと

巷では「先生ガチャ」という言葉が流行っているようです。生徒が学校の先生を選ぶことができず、その当たり外れは運次第、という状況を言い表したものです。ただ、担任の先生や教科担当の先生を生徒が選ぶことができず、また学期途中で全とっかえすることができないのは、今に始まったものではないはず。では、なぜ最近よく耳にするようになったのか、このnote記事で考察していきます。

①「ガチャ」という言葉・仕組みが若者に広まった

「ガチャ」の言葉の由来は、100円を入れてレバーをひねるとカプセルトイが出てくる小型の自動販売機からきています。何十年も前からゲームセンターやおもちゃ屋にあるアレです。昔は子どもを対象としたおもちゃだったのかもしれませんが、最近のガチャガチャは精巧に作り込まれたトイやアニメやアイドルとのコラボものだったり、若者や大人向けのものが増えてきていることが「〇〇ガチャ」浸透の背景にありそうです。他にも、リアルのガチャガチャだけでなく、中高生を中心とする若者に影響を与えているのが、スマホゲームの「ガチャ」でしょう。ただ、スマホゲームでのガチャも世の中に登場してだいぶ経ちます。グリーやDeNAのコンプガチャが社会的な問題として取り沙汰されたのが2012年なので、もう10年前です。その当時に今のような「〇〇ガチャ」という言葉が流行らなかったのは、おそらく10年前のスマホユーザーの大半は大人。現在のように中高生にスマホが普及したことで、「先生ガチャ」などの「〇〇ガチャ」という言葉が若者に使われるようになったと思われます。
事象は自体はずっと存在していたけれども、それを言語化することで広く認知されるようになる、というのはよくあることです。同じことが「先生ガチャ」にも言えます。

②学校の先生がいろいろな対象と比較されるようになった

学校教育というサービスは、本来は比較検討することが難しいものです。一度に複数の学校を経験することは、大多数の生徒にとってはほぼ不可能で、親にとっても自分の時の経験と子育てのときの2回くらいです。そのため、横で比較するのは、せいぜい自分のクラスと隣のクラスの先生を比べたり、縦の関係でも、お兄ちゃんやお姉ちゃんの時の担任の先生や教科担当の先生と比べて、「前のほうがよかったね」とこじんまりとした比較をするだけでした。他と比べることができないと、良いのか悪いのか、判断することさえできないので、「先生ガチャ」という言葉が生まれる素地がありませんでした。なんとなくよかったな、とか、こんなもんなのかな?とか、その程度の感想しか持ちえません。ところが今は、教育系アプリの神講師の授業や、教育系Youtuberの動画を手軽に見ることができます。また、生徒は全国の同年代の中高生と即時につながり、拡散された口コミにいくらでも触れることができます。学校の先生は、いきなりインターネット上の口コミサイトに引きずり出されて、勝手に比較され、勝手に一喜一憂されているような状態といえます。

③学校の先生の社会的な位置づけが相対的に下がった

これが一番根深い問題かもしれません。しかも、これは生徒のせいではありません。学校の先生をインターネット上の動画コンテンツや口コミと比較することができたとしても、実際に生徒自身に声を掛けて、気に掛けてくれる先生がいれば、そこまで気にならないかもしれません。少なくとも、生徒が「先生ガチャ」という言葉を敢えて使って、自身の境遇を嘆くことはしないかもしれません。
ところが、民間企業での働き方やデジタル化の改革が進むにつれて、教育現場の取り残され具合が目立つようになってきました。②つ目の指摘ポイントでは、先生同士の比較が容易となった状況を取り上げましたが、そこからさらに広がって、学校の先生という職業、つまり教職そのものが世の中にある仕事と比較されるようになってきたといえます。その比較結果は、残念ながら好ましいものにはならないようです。先生は忙しい、大変、と中高生は聞かされ続けているからです。
また、生徒からすれば、昔は身近にいる大人は保護者と学校の先生だったのが、今ではそれ以外の大人の意見に触れたり、影響を受ける機会が圧倒的に増えた、という背景もあります。もちろん、多様な大人の考えに触れて、それを吟味して、自分のものとしていくこと自体は歓迎すべき潮流です。さらに、ネット上を含む学校の外での活動の割合が増えることで、先生への尊敬が必然的に失われる、ということでもありません。しかし、とは言っても、ニュースメディアで学校現場の大変さや教職の辛さが取り上げられることで、教職を志望する大学生や社会人に限らず、多感で繊細な中高生にも、教職に対する微妙な距離感が生まれてしまっているのではないかと思います。

残念ながら、この3つの時代の流れについて、今後、巻き戻すことにはならないと思われます。特に、学校の先生の相対的な位置づけについては、少なくとも、失われた教師の威厳を取り戻すために、教師の回顧本にありがちな、生徒に対して権威主義的に振る舞ってなめられないようにする教師、という昭和的な構図に戻ることは到底ありえません。先生と生徒の関係性の構築は本来そんな方法ではないはず。では、どうしましょうか?

「先生ガチャ」という言葉に先生はどう向き合うか?

ひとつは、当たりを増やすということ。「〇〇ガチャ」は、はずれちゃったということを表現するために使われることが多いですが、当然、当たりもあるわけです。それなら、はずれを少なくして、当たりを増やせばよい、というシンプルな発想です。何をもって当たったとするのかの定義は難しいですし、生徒それぞれだと思いますが、生徒のためにと思う気持ちは多くの先生が持っていると思います。まずは、その気持ちを信じること。私も、生徒にとって当たりでありたいと思って、教育現場に入ることを決心しました。ただ、一人では限界があります。一人では生徒がガチャで当たりをひく確率はなかなか上がってこない。ガチャで当たりと思ってもらえるような学校生活にするために、当たりの学校の先生をスーパーレアキャラにしてはいけない、そう思って、自分のキャリアとしての教員という以上に、会社としてのon-shi-onを設けて、ビジョンに共感してもらえるフリーランス教員のホームでありたいと思って活動しています。

もうひとつは、生徒の勉強や学校生活における一人の先生との関係性や相性で決まってしまう部分をどんどん小さくすること。今の学校では、あまりにも先生の裁量が大きいので、反りが合わない先生だと、あ、終わった、と生徒が諦めてしまって、ガチャという言葉にすがりたくなるのではと思います。そのために、一人の先生によってすべてが決まってしまう感を少しでも減らすことが大事なのではと思います。例えば、授業でも先生がずっと話したり書いたりするのではなく、ファシリテーターに徹して、生徒同士の意見交換やグループワークを中心とすれば、先生によって左右されなくてすみます。また、担任もチームで、部活動も複数の外部の専門家が関われば、一人の先生による影響は相対的に小さくなります。

教育の1つの目標が、子どもたちに将来にわたっての選択肢を与えることであるならば、その土台となる仕組みも、決まったものは有無を言わさず継続適用という固定的なものではなく、選択可能で柔軟なシステムであるほうが自然です。理想主義なのかもしれませんが、確変を起こしていきたいですね。

on-shi-on株式会社では、会社のミッションである「自由に幸せに生きるフリーランスの先生を通じて、子どもと、子どもに関わる全ての人の生きる力を育む教育と世界をつくる」に共感するメンバーを募集しています。お気軽にお声がけください!
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