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なぜ、キモヲタは「社会的な合意」を拒否するのか

※ 筆者は「キモヲタ」を自称しており、いわば誇りを持って蔑称を自称しています(クィアと同じ用法)

答え:キモヲタがフォークデビルだから。

結論としては、キモヲタがフォークデビル、すなわち民衆から迫害される存在だから、迫害につながる社会的な合意を拒否していると考えられる。本稿ではこのメカニズムについて明らかにしていく。

はじめに 日本共産党と表現規制

先日、日本共産党の2021年総選挙政策で、表現規制に舵を切ったともとられかねない公約を発表したことが波紋を広げている。

非実在児童ポルノは、現実・生身の子どもを誰も害していないとしても、子どもを性欲や暴力の対象、はけ口としても良いのだとする誤った社会的観念を広め、子どもの尊厳を傷つけることにつながります。「表現の自由」やプライバシー権を守りながら、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていくために、幅広い関係者と力をあわせて取り組みます。
          7、女性とジェンダーより(2021-10-19閲覧)

そして、この公約が大きな問題になり「表現規制に舵を切った」と批判される中で、これを否定する声明を発表した。

 「60、文化」の項にあるように、「児童ポルノ規制」を名目にしたマンガ・アニメなどへの法的規制の動きには反対です。
(中略)
今回の「女性とジェンダー」の政策は、一足飛びに表現物・創作物に対する法的規制を提起したものではありません。日本の現状への国際的な指摘があることを踏まえ、幅広い関係者で大いに議論し、子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さないための社会的な合意をつくっていくことを呼びかけたものです。
そうした議論を起こしていくことは、マンガやアニメ、ゲーム等の創作者や愛好者の皆さんが、「児童ポルノ規制」を名目にした法的規制の動きに抗して「表現の自由」を守り抜くためにも、大切であると考えています。
          「共産党は表現規制の容認に舵を切ったのですか」とのご質問に答えてより(2021-10-19閲覧)

しかし、この声明の後も、批判は止まっていない。確かに、日本共産党はマンガ・アニメなどに対する「法的規制」に対して否定的な立場に立っている。しかしながら、それでもなお、多くの人が納得できていないというのが実情である。

また、日本共産党は過去において、通常とは異なる性的志向について、冷淡に振る舞ってきたという実績もある。

この問題のみならず、ポップカルチャーや大衆文化に対して、必ずしも親和的では無かったこともあるということは忘れてはならないだろう。

ここで、本稿では、日本共産党がつくることを呼び掛けている、「社会的な合意」というタームを軸に、なぜこんなにもキモヲタや表現の自由戦士と呼ばれる人たちが反発しているのか、ということを明らかにしたい。

「社会的な合意」の一例としてのクレカ規制

日本共産党は、この公約において、「子どもを性虐待・性的搾取の対象とすることを許さない社会的な合意をつくっていく」ということを主張している。さて、では、この「社会的な合意」というのは、具体的にどのようなものなのであろうか。

前述のとおり、少なくとも日本共産党は「法的規制」に反対している。すなわち、刑法第175条のような、それを表現したからといって、犯罪となるようにするということは考えていないと言える。しかしながら、犯罪ではない、要するに警察が取り締まらないからといって問題ない、ということになるのだろうか?

んなわけはない。最近の問題は多くの場合、法的規制ではなく、自主規制のようなものが中心になっているからだ。

たとえば、クレジットカードはインターネットにおけるB2CやC2Cの商取引を支えており、マスコミによる批判を受けて、アクワイアラーや国際ブランドがPornhubから撤退した結果、多くの動画が削除されることになった。この影響は、セクシャルマイノリティ向けポルノ動画に強かったXtubeにも波及し、多くの個人動画投稿者の排除を経て、最終的にはサイトの廃止に至った。

日本におけるクリエイター支援サイトのはしりであるEntyも、2017年にロリ規制を強化し、後発のFanboxやFantiaにクリエイターが移行するといった騒ぎが起きたが、これも背景にはアクワイアラーの意向があったという噂があった。その他にも、Amazonにおけるエロ漫画などの取り扱いの停止など、様々な自主規制が行われているのが実情である。

もちろん、クレジットカード会社や通販サイト、クリエイター支援サービス、電子書籍・同人販売などのプラットフォーマーにも、特定の商品を取り扱わない自由がある。この自由は、クリエイターの創作の自由と同様に尊重しなければならない。しかしながら、支配的・寡占的なプラットフォーマーが取り扱いを拒否すれば、発表や販売は、成立しなくなってしまうだろう。

究極の自主規制「暴排」

このような自主規制の極端な形態が、暴力団排除、いわゆる「暴排」である。暴対法や各地の暴排条例、あるいは暴排運動などは、暴力団に物を販売したり、家を貸したり、そのほか一般的な商取引をすることを私人に対して刑罰をもって禁止はしていない。しかし、今や、一般企業の交わすほとんどの契約書には暴排条項が盛り込まれており、暴力団関係者であれば、家を借りることも、携帯電話を契約することもできない状態になっている。

もし仮に、このような自主規制が「ロリ」に適用されればどうなるだろう。そうなれば、ロリエロ同人誌を印刷する印刷会社、イラストサイトなどのSNSなどは、銀行との取引が不可能になり、融資はもちろんのこと、決済すら困難になる。さらに、印刷会社であれば紙問屋、SNSなどであればクラウド運営会社など、仕入先から契約解除され、実質的に事業が不可能になってしまうだろう。

これは、そのほかの自主規制でも、多かれ少なかれ同じようなことが起きている。コンビニ売りのエロ本は、青少年健全育成条例に該当しないように、ソフトな内容にすることでコンビニに売り場を確保していたが、コンビニの自主規制によって売り場を追われて多くが廃刊してしまった。

現在は見直しが進んだが、絵本「ちびくろサンボ」の絶版も自主規制の一例である。また、1999年の児童ポルノ法施行時に、対象外であった18歳未満のキャラクターの性向シーンが描かれた青年漫画が大手書店から撤去された事件も自主規制の一環である。

ポーランドでは、ポルノ雑誌が合法的に大資本に買収され、フェミニズム特集を行って廃刊するというポリコレパフォーマンスの餌食になった。

このように、「社会的な合意」は、その結果として、実質的な絶版や廃刊、発表機会の喪失、商品としての販売機会の喪失につながることが珍しくなく、また、このような結果は当然に予想できるものである。その上で、日本共産党が、徹底して「法的規制の動きには反対」「社会的な合意をつくっていくことを呼びかけた」ということを言っているのは、実質的に、法的規制はしないが、社会的な合意によって実質的に規制すると言っているも同じではないかと考えられる。もし、実質的な規制を望んでいないのであれば、その点について注意的に記載するぐらいのことはするはずだし、東大民青出身の優秀な党官僚が気づかないはずがない。

「議論」の不可能性

ヒトシンカ氏による日本共産党への電話での問い合わせでは、「議論」という言葉が何度か出ている。

しかし、現実的に、パブリックな場所において、所属や身分を明かして、児童を凌辱するような内容、あるいはレイプを楽しむような内容のエロ漫画や同人誌を擁護する議論をすることが可能だろうか? これは非常に困難だろう。また、仮に恥や外聞を捨てて擁護したとしても、真面目に議論すべき自由の問題として扱ってもらえるのだろうか? バカにされるか、非道徳的、差別的な主張であるとして一顧だにされないだろう。

畢竟、民主主義における「議論」と言う手続きは、ともすれば、その社会における道徳的に劣位に置かれるものや、主流派から奇妙に映るものに対して、非常に不利な、ある種の吊し上げ会場として機能する。過去においては、同性愛や婚前交渉などに対しても、このような偏見による、「議論」を名目とした吊し上げが行われてきた。公的な議論というのは、その社会における道徳的権威にとって有利な闘技場であり、非道徳的な存在にとっては単なるリンチ会場としてしか機能しない。現代において、フェミニズムも反ポルノも道徳的な権威として機能しており、それゆえに公的な議論となれば、気持ち悪いエロ漫画愛好家や、ロリペド同人誌を描く変態を一方的に断罪し、社会的に抹殺することが可能であると言えるだろう。

2009年にイギリスで並行(無断)で輸出されたレイプレイというエロゲーが問題としてとりあげられ、その後、海外のフェミニスト団体などを巻き込んで批判が広がり、制作会社が販売停止にするなどの事件が起きた。この際にも、制作会社も審査を行ったソフ倫も、批判に対して反論するということは無かった。原理的には、他人の人権を直接侵害せず、刑法のわいせつに該当しないように修整を施し、18禁商品としてゾーニングして販売しているのであるから、レイプレイという作品は特に問題無いはずであるし、批判に対して反論する材料も十分にあるはずである。しかしながら、レイプを題材にするエロゲーである以上、道徳的に吊るし上げられることは回避できず、下手に反論しようものならより苛烈な国際的圧力がかけられかねない状況においては、反論をすることは実質的に不可能であったと言えるだろう。

「説明」の困難さ

そして、キモオタが、その表現について「説明」することの困難さもある。オタク文化は、同族意識やスノッブさに基づく、「言わぬが花」的な作品評価が珍しくない。こち亀の「アオ いいよね」の話に代表されるような、多くを語らずに良さを仲間内で確認するオタクというのは、実際にそれが出来ているかはともかくとして、一つのオタクの理想だからこそ、そのように描かれている。

特に、ロリコンなどの倒錯的な表現については、それを詳らかに説明してしまうと、その魅力を毀損してしまうことになりかねない。実際に、批評的な分析を好まないオタクというのは珍しくないし、あれだけ好意的であるだけでなく、オタク的な存在であった東浩紀ですら、決して好まれているとは言い難い存在だった。

いわゆる、倒錯的な作品は、一見してのポルノ的な価値以上の批評的な価値が存在する。クジラックスのロリ同人誌や、知るかバカうどんのリョナ漫画などは、比較的その批評的な価値がわかりやすくある作品だが、そうではない作品であっても、様々な見方をすることができる、広がりのあるものは珍しくないし、作品単体ではそれほどではなくても、ジャンル、ムーヴメントとして見ると興味深いものだって存在する。

しかし、これを分かりやすく説明することは困難だし、説明したところで理解してもらえる可能性は低い。また、分かりやすく説明してしまうことが、その作品を「その程度のもの」にしてしまい、魔術的な価値を毀損してしまうことになる。

フォーク・デビルとしての、ロリコン・キモオタ

キモオタや表現の自由戦士とよばれるような人たちが愛好し、あるいは擁護する文化と言うのは、ポルノ、その中でも特に問題視されやすい、凌辱や小児性愛をテーマにしたものが少なくない。これは、良識ある市民や、道徳的権威からすれば到底容認しがたい悪徳である。

また、大衆的で素朴な観念からすれば、猟奇的あるいは反社会的なポルノや暴力的なコンテンツは、その視聴者に悪影響を与え、社会に害をなすと思われがちである。また、そのようなコンテンツがある程度広がれば、それを実行に移す人間は必ず出てくるだろうし、実行に移した人間のうち少なくない割合で、コンテンツに影響を受けたと主張する者も現れるだろう。あるいは、ポルノのようなコンテンツは、その描写される対象を性的な目で見ることを肯定しているようにも解釈できるし、社会においてそのような振る舞いを一般化する価値観を蔓延させかねないという懸念も出てくるだろう。

そして、少なくとも、それを見た人、存在を知ってしまった人が、不快感を覚え、耐えがたい苦痛を感じた場合、その事実そのものは否定できない。

これに対して、表現の自由戦士やキモオタなどは、それらが本当に悪影響を及ぼしているのか、あるいは悪影響を及ぼした事例があったとしても、その影響の程度が重大なものであるのか、見たことや存在を知ったことによる苦痛は受忍限度を超えるものなのか、といった論点で主張することにより、法的には問題ないという主張を行うことが多い。なぜこのような主張をするかといえば、そもそも、そのような猟奇的だったり反社会的だったりする作品群を、価値がある・好んでいる・必要だといった主張が、実質的に不可能であるからに他ならない。仮に、ロリリョナ同人誌が好きだから守ってほしいと主張したところで、そんな主張は軽蔑にさらされるだけなのは明らかである。

そして、結果的に、いかがわしいコンテンツを好むキモオタはフォーク・デビルとして迫害の対象になるわけである。これが、最も苛烈になったのが1989年の宮崎勤事件の際の「おたく」バッシングである。この際のバッシングも、その大部分は「公的な規制」ではなく「社会的な合意」に基づくものであったことは忘れてはならない。

最近の事例でも、2017年の千葉市長(当時)熊谷俊人によるコンビニへの申し入れに端を発する、青年向け雑誌の取り扱い停止も、市が条例で置くことを禁止するといった「公的な規制」ではなかった。当該雑誌類の存在が不快・尊厳が傷つくものであり、目の届かないところに置くべきだとする「社会的な合意」によって、いかがわしいものたちは実質的に反論することもできずに、排除されたものである。もちろん、商売にならなくなり廃刊という憂き目にあった雑誌は多数出たが、熊谷もフェミニストも、そんなことは全く無視している。確かに、他人の痛みは永久に耐えられるし、ポルノ関係者が食い詰めて野垂れ死にしようが、屁でもない以上、そうなるのだろう。

おわりに

本稿の内容をまとめると以下の通りである。

まず、「社会的な合意」に基づく行為は、自主規制のような形で、実質的にその表現を社会的に抹殺する私刑として機能する例が珍しくない。

次に、「社会的な合意」を形成するための「議論」において、反道徳的なコンテンツを愛好し擁護するような立場は、迫害の対象となり、実質的に議論に参加できない。また、議論において説明することそのものが、コンテンツの価値を既存しかねない。

最後に、外見的にいかがわしい内容であるコンテンツやその愛好家・擁護者などは、このような「議論」「社会的な合意」により、社会に悪影響を与えるフォーク・デビルとして迫害の対象になる。

以上である。

その他、本稿では言及しなかったものとして、TPOという概念の問題、オタクがカマトトぶっている(エロいとわかっているはずなのに、それを無視している)という指摘の問題などがあるが、この問題についてもそのうち議論したい。

写真は、プラハ旧市街広場 ヤン・フス像

いつもありがとうございます!