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【百年ニュース】1921(大正10)10月17日(月) ソ連女子体操金メダリストのマリア・ゴロホフスカヤがクリミアのユダヤ系ウクライナ人家庭で誕生。レニングラードの体育研究院に進むが,在学中に独ソ戦に遭遇。ドイツ軍に街が包囲されるなか,軍の病院で働く。1952ヘルシンキ五輪で7個のメダルを獲得した。

ソ連女子体操金メダリストのマリア・ゴロホフスカヤ(Maria Kondratyevna Gorokhovskaya)がクリミア半島の都市イェウパトーリヤで生まれました。両親はユダヤ系ウクライナ人でした。

幼少時からスポーツに優れ、1941年にレニングラード(現サンクトペテルブルク)の体育研究所に進みました。しかしマリアが入学したその年1941年の6月22日、突如ナチスドイツがソ連に侵入し、バルバロッサ作戦を発動しました。独ソ戦の始まりです。開戦当初はソ連軍の敗北が続き、8月にはスモレンスク、キエフ、ハリコフが陥落。9月にはドイツ軍はモスクワ攻略戦に乗り出しました。

マリアのいたレニングラードはモスクワに次ぐソ連第二の都市です。9月8日にはドイツ軍に包囲され、93万人のソ連軍と300万人以上の市民が立てこもりました。しかしドイツ軍による連絡路の遮断によりレニングラードへの補給はほぼ断たれ、冬が迫るなか深刻な飢餓状態が発生しました。11月20日にラドガ湖が凍結すると、ようやく馬ぞりによる輸送部隊が氷上を通って物資を送り届けられるようになりました。

この連絡路は「命の道(ダローガ・ジーズニ)」と呼ばれました。春になり氷が解けるまでの152日間、このルートを通って、市民51万4,000人、兵士3万5,000人がレニングラードを脱出しました。翌年の冬には自動車による補給どころか氷上に鉄道も建設され食料などの物資をレニングラードに運び込みました。マリア・ゴロホフスカヤもレニングラード市内の軍の病院で臨時に働いていましたが、この命の道で脱出しました。1944年にソ連軍がクリミア半島からドイツ軍を駆逐したのち、故郷のイェウパトーリヤに戻りますが、父と兄を戦争で失っていました。

戦後マリアは体操競技選手としてトレーニングを再開し、1948年のソ連邦選手権の平均台で優勝。1952年のヘルシンキオリンピックでは、金メダル2個、銀メダル5個、合計7個のメダルを獲得する大活躍を見せました。この7個という記録は、現在でも1つのオリンピック大会で女子選手が獲得したメダル数での最多記録です。

今年の東京オリンピックで、オーストラリアの女子競泳選手エマ・マキーオン(Emma McKeon)が同じく7個のメダルを獲得してマリア・ゴロホフスカヤの記録に並びましたが、それまではマリアの1952年ヘルシンキオリンピックでの体操競技の記録が単独の女子最多メダル記録でした。

マリアは1990年にイスラエルを移住し、2001年イスラエルのテルアビブで死去しました。享年は79歳でした。

マリア・ゴロホフスカヤ (3)

マリア・ゴロホフスカヤ (4)

マリア・ゴロホフスカヤ (2)

マリア・ゴロホフスカヤ (5)

マリア・ゴロホフスカヤ (1)


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