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『君たちはどう生きるか』の感想をオタク特有の長文早口で述べる #1

実は初日の深夜に見たのだが、思ったことを全部書こうと思っていたら2万字を超え、いつのまにか1週間が経ってしまった。

それでもまだ次から次へと書きたいことが出てきてキリがないので、一旦ここまでで切り上げ、4つに分割して公開することにする。

タイトルに「オタク」とあるが、筆者は熱心なジブリオタクでも宮﨑駿オタクでもない。普段アニメをまったく見ないのに、たまたま今作を映画館で観て話したいことが大量に出てきてしまい、狭い領域についてひたすら長文早口を恣にするその姿がオタクに似ているように感じたので、その一側面をもって「オタク」を自称しているまでのことである。

本記事は「考察」というよりも「連想」という名目で随筆として書いていったものである。書きたいことだけを思いついた順に書いたので、特に結論のある話をする気は初めからないものと思って読んでいただければ幸いである。


前提篇

この篇では、映画の総評および鑑賞時の心構えについて述べる。

前提篇なので、具体的な場面や登場人物に沿った話よりも、もっと抽象的な話をする。具体的な場面や登場人物に沿った話は、次篇#2において述べる。

あの映画は何か

あの映画は芸術作品(自己表現の一種)である。
映画をまだ観ていない人は、本記事を含め、解説記事の類は読まないほうがよいと思う。「自分はネタバレされてもそれなりに楽しめる」という人であっても、やはり読まないほうがよいだろう。それは娯楽的理由というよりは芸術的理由からである。
そもそも、現物を見る前に解釈を予習しようとするのは、芸術鑑賞においてはこの上なく有害な心構えである。ただでさえ、自然よりも書物を尊び、事例よりも理論を尊び、具体よりも抽象を尊び、実物よりも名義を尊ぶような価値観に支配されがちな現代人が、当の物よりも先に意味付けを知ってしまうと、まるで意味付けの方が「あるべき基準」であるかのように錯覚するおそれがあるからである。そのような状態で鑑賞すると、単なる二次資料にすぎない「解釈」というものが、一次資料たる「現物」を侵し、歪め、もはやそうとしか解釈できないという認知状態に陥りかねない。
解説のとおりに現物を見るのではなく、現物のとおりに解釈を起こすのだという前提意識をもって鑑賞すれば、芸術の面白さが分かってくる。現物をありのままに認識するところを芸術鑑賞の出発点として考えるならば、その純粋な事実認識を初手から狂わせてしまうような色眼鏡はかけないでおくに越したことはない。厳密には純粋な事実認識など人間にはできないのだが、それでも掛ける色眼鏡の数は少ない方がよい。
ジブリ公式が、映画の基本的なあらすじすら事前に公開していないのは、今作が芸術作品として鑑賞されることを期待してのことではないだろうか。
まずは原典となる映画を観て、その後で自分で解釈したり他人の解釈を聞いたりするのがお勧めである。

「あの映画は何か」という問いの是非

前章には「あの映画は何か」という見出しを付けたが、「あの映画は何か」という問い自体、実は危ういところがある。

すでに述べたことの反復となるが、芸術作品を言葉によって定義づけすることはできないので、「あの映画は何か」などということは本来言いようがないのである。

芸術は言葉で説明することはできないとはいうものの、言葉に依らなければ、意を伝えることは難しい。芸術は離言的であるが、それを鑑賞して感じたことを共有するには依言的にならざるを得ないということである(離言真如と依言真如)。

このような事情があるので、本記事を読むにあたっては、是非ともこのあたりを割り引いて読んでいただくようお願いする。

あの映画の面白さは何か

宮﨑駿の思想や人生が作為なく感じられて面白い、とでも言おうか。

あの映画は、宮﨑駿の精神世界から何かしらかのものが何かしらかの因縁に由って映画のスクリーン上に顕現したものの集合である。あるいは、本来混沌とも秩序ともつかない心の世界のなかで渦巻く思考の気のようなものを、外界の人間にとって知覚可能となる状態へと翻訳した結果が、あの映画である。

もっと簡単にいえば、あの映画は宮﨑駿が心に浮かんだものをそのままアニメにしたものである。

といっても、芸術作品とは大抵はそういうものであって、今までの宮﨑映画だってずっとそうであったのだから、今更改めて言うことでもないと思われるかもしれない。

今回の映画が今までと大きく違うのは、天馬空を行くがごとき趣のある点である。宮﨑駿の心を飛び出した大量の暴れ馬(考え・アイデア)に対して、従来かけられてきたであろう制馭の手綱が、今回は意図的に取り去られているように見えるのである。

意図が観客に伝わるように順番を組み替えたり、変換したり、研磨したりして話の筋を辻褄合わせするのではなく、宮﨑駿の心に現れた相を、無傷のままに描いているような印象を受ける。話の飛躍や矛盾のように見られかねない部分を洗い出し、無理に正当化するようなところがなく、感情や思想の発露を小細工なく素直に並べたところに一種の美がある。

収拾がついていない状態を悪むような文化の中で生活しているとなかなか理解しにくいとは思うが、試みに「無理にこじつけてでも収拾をつけるべき」という価値観に疑いを容れてみれば、今作がどんなに芸術的に素直で美しいものであるかが分かってくるだろう。

人為のない作品とは、一見すれば渾沌である。「ストーリーがよく分からないから面白くない」とは、渾沌に目鼻がついていないことについて文句を言うようなものである。

渾沌を嫌う価値観を悪いと言っているのではない。渾沌を喜ぶような価値観もあることを知り、今の価値観の圏内から「いち抜けた」をして、別の価値観の指に「止まった」をしてみるのも、いいのではないかという提案である。鬼ごっこのルール圏から抜け出しもせず、鬼ごっこのルールブックを片手にかくれんぼの欠点や問題点を論じているかぎりは、かくれんぼの面白さはなかなか分からないものである。

何が表現されているのか

もし宮﨑駿の心がソーマトロープ仕掛けになっていて、我々が敢えてそれを覗き込めるとしたら、きっと今作のアニメがそのまま流れているに違いない。

今作の内容は、宮﨑駿がある夜に見た夢のようでもあり、憧れのようでもあり、トラウマのようでもあり、葛藤のようでもあり、遺言のようでもあり、誰かへの手紙のようでもあり、怒りのようでもあり、慰めのようでもあり、人生のようでもあり、死に際に見る走馬灯のようでもある。

今作は、そのうちどれか特定の1つを表現したものではないと思う。表現されているのは、密接不可分の総合的なである。

そもそも、心に対して、殊更に概念分けをし、分析をし、一貫性を検証し、説得力のある説明をつけるようなことは、人間には到底できないことであると知らなければならない。

今作は、心から何か象徴的な部分を分かりやすく切り取って「今回の映画のテーマはこれです」といえるような性質のものではない。あえてテーマを鮮明にするならば、総合的な意味での「心」であるとするのが一番近い気がする。

心に現れたアイデアは、それが何なのか自分でも分からないものである。なんとなく分かったとしても、それが何に由って来たものなのかまでは正確には特定できない。

自分にとっても分からないものを、どういう手を使ってか他人に分かるように加工し、時に本来の意志を殺し、時に本来の魅力を活かし、商売用の型にはめて公開するのが従来一般の映画である。ところが、今回の映画にはそういう小細工がほとんど見られない。人為的な辻褄合わせというものがないのである。芸術として尊い部分があるとすれば、ここである。

芸術として尊いというのは、決して内容の難解さを尊んでいるのではない。自己表現の素直さを尊んでいるのである。

大人のつくるものは、子どものつくるものと異なり、往々にして整理されすぎている。一貫性のあるユーザフレンドリーなものを評価するような世界に生きている我々は、作品を観るときであっても製品を観るような目で評価しがちである。我々がそういう目で評価する以上、映画監督はそれに合わせた対策を取らざるを得ない。このとき、どうしても芸術性が犠牲となるのである。

今作において、宮﨑駿は商業性と芸術性との衝突を裁くにあたって、常に芸術性を優遇したように見える。自らのなるものを表現するにあたって、複雑な真実を簡単な欺瞞に置き換えて表現するような権道をとらなかったのである。

芸術、アートとは自己表現のことである。
今作は自己表現の極みともいうべき出来である。
ゆえに、今作は宮﨑駿アートの極みといっても過言ではない。

良い映画か

良いか悪いかは相対的なものである。

「良い映画」というと、「良い」という形容詞が「映画」という名詞を修飾しているので、映画自体に良い悪いがあるかのように思えるが、実際にはそうではない。

良い悪いというのは、映画と鑑賞者の相性が良いか悪いかということでしかないのである。

「良い映画」だけでなく、「おいしい食べ物」「大事なぬいぐるみ」などもすべてそうである。食べ物自体に、美味しいか不味いかという属性はない。美味しさは、各人の「みなし」に対して紐づく属性である。ぬいぐるみ自体に大事か下らないかという属性はない。大事さは、各人の「みなし」に対して紐づく属性である。あらゆる価値の正体は、「人と対象物との関係性がどうであるか」というものでしかないのである。

ものごとを評価するときには、必ず以上のことを押さえたうえで評価しなければならない。

そのうえで「良い映画か」という問いに答えると、素直に「良い映画」であったといえる。もちろんこれは個人的意見であり、「ある側面では自分と相性の良い部分があった」というほかに含意はない。

一方、臆測になるが、多数派意見におけるいわゆる「良い映画」と呼ばれるものは、商業性と芸術性とが両立しているものであろう。両立しないよりは両立していたほうがよい。たとえば『もののけ姫』などは、この定義において、素晴らしく「良い映画」であると思う。

ただし、今作が上記の「良い映画」の定義にあてはまるかどうかでいうと、あまりあてはまらないと思う。

特に大人は、意味が分からないものや理屈の分からないものを蔑視する傾向があるので、今作については駄作であるとする人が多いのではないだろうか。

分からないことをどう受け止めるか

「分かりにくいから駄作だ」という主張は、非常に合理的である。

しかし、本当は意味が分からないのに「全部意味が分かった。簡単だ」と主張する人がいるとしたら、すこし滑稽である。

分からないものを分かったと言うのは『裸の王様』に出てくる「典型的な大人たち」と選ぶところなしである。せっかくならば、見たままを評価できる子どもたちでありたい。この点でいうと、実際子どもたちのほうが今作を楽しめている可能性すらあるような気がする。

アニメ映画はテスト問題ではないのだから、気に入ったところだけ拾って心の栞にするくらいで丁度よいと思う。絵画や音楽を鑑賞して気に入ったところだけを拾って楽しめる人は、小説や映画だってそうすればよい。小説や映画にしつこく解説を求めるのは、絵画や音楽にしつこく解説を求めるのと同じことである。

通しでは分かりにくいと感じても、局所的に観ると一定の筋はある。

筋があると感じたならば、そういう筋だと思って楽しむ。
人の捉えた筋が面白いと思ったならば、それを面白がる。
筋がないと感じたならば、筋がないものとして受け止める。
筋を気にしないという立場をとるならば、筋にとらわれずに好きなところを切り取る。

結局、宮﨑駿も描きたいままに描いてきているのだろうから、こちら側も分かるように分かればよいのではないだろうか。

渾沌に目鼻をつける

『荘子』に「渾沌」という寓話がある。

筆者は高校3年生のときに教科書で習ったおぼえがあるので、もしかしたら今でも内容を覚えている人もいるかもしれない。

あらすじとしては「ある人たちが、渾沌という名の目鼻のない人に、目鼻をあけてあげたら死んでしまった」という話である。

渾沌とは「自然ありのまま」であることを擬人化したものである。それに目鼻をつけるとは、強引に理屈をつけて説明付けることの喩えである。

自然や芸術には、渾沌のようなところがある。自然や芸術には、本来説明文というものはついていない。あるのは本体のみである。
すでに述べたように、芸術はその本性において離言真如に似たところがある。その芸術に対し、第三者が濫りに説明文をつけて「これが正しい読みである」などと断定するような行為は、荘子の思想に則れば、小賢しいにもほどがあるということになる。

しかし、それでも目鼻を付けてみたいものである。

実際、渾沌に目鼻を付けるのは楽しい。ただし、本当に目鼻を付けると渾沌は死んでしまうので、仮の目鼻をつけるのである。渾沌に目鼻がないことを尊重し、認識したうえで、わざと渾沌に目鼻をつけたり外したりしている分には、それもまた芸術の楽しみ方の一つといえるのではないか。

筆者が幼稚園にかよっていたころ、よく園の行事で近所の西洋美術館に連れて行ってもらっていた。あるとき「好きな絵を選んで、自分なりの物語を考えてみましょう」という回があって館内に解き放たれたことがあるのを覚えている。同じ絵を見ても人ごとに違う物語を連想するので、なかなか面白い。各人の解釈が共通していないことに腹を立てるようなこともなく、自分の解釈を正とし、他者の解釈を誤とするような姿勢も、そこにはない。絵の解釈の正誤を競うのではなく、捉え方を楽しんでいたからである。

他人の絵に自分なりの物語をつけるのは、渾沌に目鼻を付けるような行為である。もちろん、本来の絵には目鼻などついていないということを分かったうえで仮の目鼻を想像で付けて遊ぶわけだから、自分の考えた目鼻によって渾沌を規定しようというような意図はない。

本記事は、筆者の個人的な感想をオタク特有の長文早口でしゃべろうという企みの記事であるが、やっていることはすべて「渾沌に対して思いつきでことさらに目鼻をつける」ということにほかならない。渾沌に目鼻をつけることの害を認識したうえで、あえてつけるのである。

今作は宮﨑駿の思想が作為なく表現されているものであろうと筆者は述べたが、もちろんすべてが映画に表現されているわけではない。映画は場面を尽くさず、場面は意図を尽くさずとの認識のもと、本記事はかなりの部分において行間を読んでいる。「行間を読んでいる」とは「臆測している」という意味である。モンゴメリ『赤毛のアン』に出てくる主人公アン(オタク特有の長文早口を恣にする想像力逞しき少女)のように、見えないものを想像するところに大半の楽しみを見出しているわけなので、その前提で読んだいただければ幸いである。

次回(登場人物・場面についての連想篇)

次回は、個別の場面について、ことさらに解釈をつけていく回である。


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