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『君たちはどう生きるか』の感想をオタク特有の長文早口で述べる #4

この記事は全4篇のうちの#4(最終回)である。

いままで渾沌に目鼻をあけるような話を展開してきたが、今回は目鼻というより毛穴をあけるような話が多い。前3篇が未読の人は、そちらを先に読んでいただきたい。

  • 「今作の鑑賞方法についての抽象的な話」が読みたければ#1

  • 「登場人物や具体的な場面に対する話」が読みたければ#2

  • 「今作の質感によく似た別についての話」が読みたければ#3

  • 前3篇をすべて読み終わった場合は#4(本記事)

以上を目安に読んでいただくことをお勧めする。

前回までの記事は以下のとおり。



演出についての所感

前回までの話では、挙燭の字を見て無稽の論を垂れるようなきらいが強かったが、今回はストーリーとはあまり関係ない演出上のことについて、純粋に感じたことを書いていく。

過去のジブリ作品に似ている

ジブリ映画をよく観ている人は大抵気づいたと思うが、今回の映画は、過去のジブリ映画の場面を髣髴とさせる表現が随所に現れていた。

たとえば、主人公が壁伝いに建物を登る場面や、階段の櫓が崩れる場面や、池を掻いて行方不明者を捜索する場面などは、『千と千尋の神隠し』や『天空の城ラピュタ』や『となりのトトロ』にも似た場面があったと思う。

今作が宮﨑駿の遺書や走馬灯のようにみえるのは、この演出のせいではないだろうか。過去の作品たちが全員集合したオンパレードのような印象を受けた。

空襲の中を駆ける表現がすごい

人混みの中を駆け抜けていく場面は、鬼気迫っており、非常に印象的だった。今までの宮﨑アニメで見たことがないようなタッチである。高畑勲の『かぐや姫の物語』で、姫が屋敷を飛び出して野原を駆ける場面もよかったが、それに匹敵するような素晴らしさがあった。

効果音がリアル

特に最初の方の場面で、下駄の音や廊下を裸足で歩く音などがものすごくリアルなのが印象的だった。『風立ちぬ』のときの効果音は不自然で気持ち悪い感じがしたが、今度のはリアルすぎてアニメとは合わないのではないかと心配になるくらい本物らしく聞こえた。

流血

眞人が石で自分の頭を打つ場面がある。
その後すごい勢いで血が溢れ出していたが、平然としている割には量が多すぎるのではないかと思った。ほかの宮﨑アニメ(『千と千尋の神隠し』や『ハウルの動く城』など)には、涙がすごい勢いで大量に出てくる描写がある。あれも初めて見たときは違和感があったが、今回の血もそんな感じである。

小刀

眞人が竹で弓を作る場面がある。
見間違いかもしれないが、手元を宙に浮かせ、竹を引くのではなく刃の方を押して削っているように見えて、ちょっと危ないと思った。

青鷺の気味悪さ

青鷺をモチーフとして採用した芸術的理由は知らないが、実際の青鷺の気味悪さがものすごく嫌らしく表現されていた。

田舎で育った人はよく知っていると思うのだが、青鷺は日常的にもよく見かける鳥で、大抵は水辺にいて、1羽でじっと立っていたり、ゆっくり歩いていたりすることが多い。

そしてこの青鷺は、いかにも何かしてきそうな佇まいをしているのである。

実際には何もしてこないのだが、かなり体が大きく、子どもの背丈くらいはあるので、人間の生活圏で見かける鳥にしては迫力がある。要するに、すこし怖い。

青鷺は人間に気づくと、じっと動かずにこちらを見てくる。むしろこちらが気づく前に、すでにこちらを凝視してきていることがほとんどである。そういうところも気味が悪い。(なお、鳥は頭の両側面に目がついているので、「こちらを見てくる」とは「顔の正面ではなく片面をこちらに向けてくる」という意味である)

たとえば雀などは非常に感情豊かなので、人間を警戒しているときの姿勢は一目瞭然なのだが、青鷺は無表情なので何を考えているのか全く読めない。おそらく田舎の子どもに雀を思い出すようにいうと、さまざまな姿を思い出すと思うが、青鷺を思い出すようにいうと、皆同じ姿(じっと立ってこちらを見ている姿)を思い出すような気がする。

作中のインコなどは、言われなければセキセイインコだとは気付かないようなデザインであるが、青鷺に関しては見紛うことなき青鷺である。写実的過ぎて、現実の青鷺もああいうことをしてくるのではないかという想像を招きかねない。

リアルな青鷺が突然大きな羽を開いて襲ってくる様子をしつこく映像化した宮﨑駿は、現実の青鷺を知る子どもに対して、取り返しのつかないレベルのトラウマを植え付けたであろう。

二枚歯の下駄

ナツコは二枚歯の下駄を履いている。
筆者は私服で和服を着ることがあるので二枚歯の下駄もたまに履くのだが、あの家で日常生活するにあたっては、二枚歯の下駄は選ばない気がする。おもての石の階段を上り下りしているときに、いつか踏み外す危険性があるからである。二枚歯の下駄は、階段(特に形が不規則で整備の不十分な階段)と非常に相性が悪い。

字体へのこだわり

今作では旧字体がかなり丁寧に使われている。

たとえば、「ワレヲ學ブ者ハ死ス」と右書きに書かれた門が出てくるが、「學」という字はともかく、「者」までもが旧字体になっていたのには驚いた。「者」の「日」の字の右上に点があるのが旧字体で、ないのが新字体である。
現代の本で復古的に旧字体で印刷される場合、この字は新字体になってしまっていることが多く、青空文庫の旧字表記の作品でも点なしが普通なのに、「ワレヲ學ブ者ハ死ス」はきちんと戦前の標準的な活字の形に則っているのである。

ちなみに、前作『風立ちぬ』でも旧字体が使われていたが、たしか最初の方の場面では新字体と同じ形で書かれていることが多く、途中から旧字体が頻用されるようになっていたように思う。

今作では字体監修した人がいたのか、最初からよく統制がとれており、興味深かった。

文字関連でいうと、最後のスタッフクレジットの手書き風フォントが、本当に手書きかもしれないということも気になった。同じ字でも筆跡が若干違うのである。あのような微小な差異は、本当に1文字ずつ手書きで書かなければ通常は起こらないことである。

おわりに

あまり推敲をしなかったので、意味の取りづらい部分も多かったと思う。4篇すべてを読んでくれた人がどれほどいるかは分からないが、相手が話を聞いているかどうかにかかわらず長文早口で話し続けたことは、オタクの名に恥じざる業績として筆者の自ら負うところである。

宮﨑駿こそが長文早口のオタクである

筆者は自分をもって長文早口のオタクであると内省したが、宮﨑駿だって、観客が話を理解しているかどうかにかかわらず長文早口で2時間自分の考えを描いて発表するようなことをしているのだから、彼も長文早口のオタクと言わざるを得ないだろう。

実は本記事が長文早口なのは、宮﨑駿の顰みに効ってのことである。

宮﨑駿は今作について「おそらく、訳が分からなかったことでしょう。私自身、訳が分からないところがありました」と発言したそうだが、率直に自分の心の裡を喋っているだけなのに自分でも何を喋ってるか分からなくなるのは、まさに長文早口のオタクにみられる典型的症状である。聞いて分かりやすい話というのは作為(読み手への配慮)が加わっているから分かりやすいのであって、作為を去って自分の心の真体の発するところに従えば、話というのは自然分かりにくくなりがちなのである。

作為のないところを喜ぶような姿勢が、今作を面白く観るための最大の秘訣であったと言っても過言ではない。今作の面白さについて「宮﨑駿の思想や人生が作為なく感じられて面白い」と#1で述べたのは、まさにこの謂いである。

「あの映画は何か」改

本記事の#1では、「あの映画は何か」というところから話し始めた。今改めて、一言をもってこの映画すべてを蔽うなら「思い邪無し」である。

最後に一番大事なことを話そう。

渾沌に目鼻をつける行為は、芸術作品を仮初めの解釈に服従させようとするような一種の冒瀆性があるという旨の話をしたのを覚えているだろうか。今まで筆者が述べてきた連想の数々は、ことごとく一種の冒瀆性を内包しているのである。映画を観る前に本記事を読んでしまった人は、不幸である。

ひとたび解釈を得てしまうと、その解釈を去って実物を観ることは非常に難しくなるという話もした。本記事を#1からここまで読んでしまった人は、次回以降『君たちはどう生きるか』を観るときに、筆者が述べた解釈や連想をふと思い出してしまうかもしれない。気の毒なことである。解釈を学ぶということが呪いの一種だと勘付いたときには、もはや実物を、芸術を、尊い素直さを、自らの感性のままに受け取ることはできなくなっているのである。もう実物を実物として観ることはできない。今ならこの恐ろしさが分かるだろうか。

解釈なる者曰く「ワレヲ學ブ者ハ死ス」である。「死」とは「不可逆」を表すメタファである。もう二度ともとには戻れないという意味である。そのような恐ろしいものは心の墓に封印しておくに越したことはない。

再びあの映画を観ようとする人は、解説・考察・説明・解釈などという類のものは早く忘れよう。芸術鑑賞にとって事前情報は害毒であるから。渾沌から目鼻を取り去ろう。もともとなかったはずの目鼻なのだから。

(完)


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