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『君たちはどう生きるか』の感想をオタク特有の長文早口で述べる #3

今作と似ていると思った既存の作品について述べていく。
『不思議の国のアリス』『草枕』『MOTHER2』を挙げる。

この記事は全4篇のうちの#3である。

前回までの記事は以下のとおり。



似た作品についての連想

今作はさまざまな作品に似ていると感じたが、ここでは特に3作だけ挙げてみる。

ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』

まず、これである。
おなじ感想を持った人も多いのではないだろうか。

全体的な展開や構成に注目すれば、今作は『不思議の国のアリス』の翻案であると言っても過言ではない。

『崖の上のポニョ』は『人魚姫』に部分的に似ているが、今作は『不思議の国のアリス』に全体的に似ている。無意識にそうなったのか意図的に下敷きとしたのかは分からないが、とにかく結果としてよく似ている。

たとえば、普通の世界から不思議な世界に迷い込むのは、アリスの展開と同じである。これはイギリスの小説ではよくある展開で、『ハリーポッター』などにも見られる。『千と千尋の神隠し』でも同じような形式が取られているが、あの作品がイギリスでよく受容されたのは、そもそも展開自体がイギリスの伝統を踏襲しているような形になっているからであるとの説を過去にどこかで聞いたことがある。

あの大量のインコは『不思議の国のアリス』に出てくるトランプそっくりである。どこがそっくりなのかはうまく説明できないが、廊下の両側から影が行進してくるところなど、いかにもアリス風な感じがした。

余談だが、キャロルと宮﨑駿は「少女が大好き」という共通点を持つ。なにか親近感というか、通じているところがあるのかもしれない。

夏目漱石『草枕』

今作の登場人物のおばあさんが「坊っちゃん、XXXXぞな」と言っている場面をみて、まっさきに漱石の『坊っちゃん』を連想した。『坊っちゃん』は「XXXXぞな」や「XXXXぞなもし」という口調の台詞が頻発する小説であり、「坊っちゃん、XXXXぞな」は狙って言っているように聞こえる。

また、場面が捉えどころなく変わり、夢か現かわからない幻想的な流れを醸し出しているところなどは、漱石の『夢十夜』に似ている。

ちなみに、『崖の上のポニョ』に出てくる「宗介」は、漱石『門』に出てくる「宗助」から採られたものであるという話を聞いたことがある。どうやら宮﨑駿は漱石作品が好きらしい。

さて、今作を観終わって一番似ていると思った漱石作品は『草枕』である。何が似ているかは言葉では非常に説明しづらいが、作品の態度とでもいおうか、器とでもいおうか。

『草枕』には以下のような場面がある。本を読んでいる主人公(芸術家思考)のもとに、女が現れる場面である。

「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」

夏目漱石『草枕』

つまり、小説を読むにあたって、この主人公は「適当に開いて読む」という接し方を採用している。多くの俗人が思っているような「小説は筋を読まなければ読んだことにならない」という価値観を、必ずしも絶対であるとは思っていないのである。また、『草枕』という小説自身が、そのような楽しみ方を受け入れるような器を有しているのも特徴である。

ところで、三鷹の森ジブリ美術館には、普通の美術館にあるような「順路」というものが設定されていない。「本美術館には順路のようなものはありません」というような意味の看板まであって、どのような思いからそうしているかもきちんと書かれている。好きなところから好きな順に見ればよい。あの美術館は、そのような楽しみ方を受け入れるような器を有しているといえる。

今作『君たちはどう生きるか』も同じである。『草枕』のように、またジブリ美術館のように、筋にこだわらず、適当なところから観て面白く思えばそれでよい。そのような楽しみ方を受け入れるような器を有しているといえる。

実際に『草枕』は宮﨑駿の愛読書らしい。宮﨑駿も適当なところを開いて読むという読み方をしているとのことである。

『草枕』が大好きで、飛行機に乗らなきゃいけないときは必ずあれを持っていくんです。どこからでも読めるところも好きなんです。終わりまで行ったら、また適当なところを開いて読んでりゃいい。ぼくはほんとうに、『草枕』ばかり読んでいる人間かもしれません(笑)。

https://purplepig01.blog.fc2.com/?no=313

上記の思想は、アニメ作りにも影響を与えている可能性がある。

なお、宮﨑駿と漱石は誕生日が同じであり、どちらも母を早くに失っている。共鳴するところがあるのかもしれない。

糸井重里『MOTHER2』のマジカント

『MOTHER2』という名前のゲームがある。
糸井重里の作ったスーパーファミコン時代のRPGゲームである。かなり古いが、非常にファンの多いゲームである。

プレイしたことのある人は覚えていると思うが、そのゲームの終盤に「マジカント」という名前の不思議な世界が登場する。これは主人公の心が作り出したという世界である。

眞人の迷い込んだ不思議の国は、そのマジカントに似ている。

『MOTHER2』のストーリーでは、主人公が突然マジカントに迷い込んで出られなくなるのだが、そこには主人公の心の抱える善意、悪意、友達、敵、関心、思い出などがまばらに存在している。統一性があるのかないのか分からないような不思議な世界である。そこにいる住民は、一見自由意思を持っているかような発言や振る舞いをするが、もとは主人公の心が生み出した存在であるので、実際にその発言や振る舞いをさせているのは主人公本人であるといえる。

今作『君たちはどう生きるか』における不思議の国の正体が本当に眞人の心の世界だとしたら、ひょっとすると、そこで出会ったヒミもキリコも、眞人の深層心理の作り出した幻覚なのではないかという説も浮上する。また、ヒミやキリコに限らず、不思議の国に登場するあらゆる人物、ナツコですら幻覚である可能性まで考えられる。そうすると、彼女らに言葉を言わせているのも行動をとらせているのも眞人自身ということになる。

そうだとすると、これは現実世界にいう「夢」と同じである。夢に登場する人物は、みな自分の意志をもっているかのような振る舞いをするが、実際にその言葉や行動を選んでいるのは、夢を見ている本人にほかならない。実在の人物が夢に登場したとしても、それは自分の心が生み出した架空の像であって、当人ではない。夢の中の他者との対話は、実際には自分との対話なのである。
眞人がキリコの部屋で目覚めると、不思議の国には来ていないはずの屋敷のお婆さんたちが人形になって眞人を囲っているという場面がある。あれは、看病のためにベッドのそばで見守ってくれていたお婆さんたちのイメージが、眞人の意識の中で一定の形を伴って再現された結果なのかもしれない。

『MOTHER2』では、最終的に自分の心の奥深く、自分の心の急所ともいえる場所に赴き、そこに巣食う己の心の邪悪(自らが育ててしまっていたという悪しき感情)に向き合い、打ち克つという流れになる。
これは、眞人が自分の心の奥深くにある禁忌の産屋に入り込み、心のざわめきに耐えながら自分の弱点と戦うあの壮絶な場面とかなり重なるところがある。

ところで、タイトルの「母(MOTHER)」という言葉は、どこか宮﨑駿との因縁を感じさせる。宮﨑駿はゲーム嫌いらしいので、本作から影響を受けたという可能性は低いだろう。ただ、宮﨑駿は作者の糸井重里と面識があり、一定の交流はあるはずである。なぜならば、ジブリ作品のポスターのキャッチフレーズは、ほとんど糸井重里が手掛けているからである。

糸井重里は自身の少年時代について以下のようなことを述べている。

父親の再婚後にやってきた母親は、もう甘える年でもなかったし、甘えさせてくれる感じでもなかったし、関係はむずかしいですよ。
ほんとうは「お母さん」と呼ぶことにも抵抗があったけれど、それを拒絶するほど大嫌いでもない。なんだってそうだけど「大嫌い」ってことばは、「好き」の表れですから。大嫌いにもなれないくらい、遠かった。
だから、ぼくにはふたりの母親がいるはずなんだけれど、その「母親」である人たちから抱きしめられた記憶がいっさいないんです。自分から抱きついた記憶も、当然ない。

https://newspicks.com/news/2192999/body/

糸井重里も母と早くに離別しているのである。
今作の眞人の境遇と大いに重なる部分がある。

自らの作り出した心の世界に入り込むというのは、母なき少年にとってなにか象徴的な意味があるのかもしれない。

次回(演出についての所感/おわりに)

次回は最終回である。


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