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11.聖書の読み方①-2〜ペテロと魚のお話(比喩の解き明かし)〜

こんにちは^^
私のノートをご覧になってくださる方、フォローしてくださった方、本当にありがとうございます。

前回、
・聖書は比喩で書かれている
・比喩を解く時、聖書の「疑問・問題」は聖書の中に「答え」があるから、聖書の中から答えを探し、比喩を解くことで、正しく理解することが大切だ
という話をしました。

では、前回でも少し紹介した「ペテロと魚」の話を、聖書に書かれていることだけを基盤として解き明かしていきます。
※私が解いたわけではなく、キリスト教福音宣教会の代表であるチョンミョンソク牧師から学んだものです。


<疑問となるシーン>

マタイによる福音書17章24〜27節
「17:24彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。 17:25ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。 17:26ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。 17:27しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。」

イエスキリストとペテロが税金の取り立てにあっている時に、イエスキリストがペテロに「海に行って魚を釣ってきてきなさい。その魚は銀貨をくわえているからその銀貨を税金として支払いなさい」という指示を出した、という話です。

聖書を専門的に研究する神学者はこのシーンについて多様な見解を出しています。
①文字通り魚が銀貨をくわえていた。神様に不可能はない。
②魚のお腹の中に、餌と間違えて食べた銀貨が入っていた。
③魚を市場で売って銀貨を手に入れた。
などです。
なんとなく③が万民受けしそうな説ですよね。

しかし、「自分はこう思う」という説はどこまでいっても推測であり、確証はありません。

では、聖書にある疑問に対する答えを聖書の中から探してみます。

<イエスキリストとペテロの出会いのシーン>

先ほどの話を解く鍵はなんとイエスキリストとペテロの出会いのシーンを見てみると分かります。

ルカによる福音書5章1〜11節
「5:1さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、 5:2そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。 5:3その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。 5:4話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。 5:5シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。 5:6そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。 5:7そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。 5:8これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。 5:9彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。 5:10シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。 5:11そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。」

少し長かったですが、
・ペテロはもともと漁師で、イエスキリストと出会った時は漁の片付けをしている時だった。
・当時はマイクがなかったため、イエスは湖畔で群衆が見える位置に出て行き説教をするためにペテロに船を出すようお願いした。
・その日魚が釣れなかったペテロに対しイエスキリストがアドバイスをし、その通りにしたところたくさんの魚が釣れた。
・奇跡を目の当たりにしたペテロはイエスキリストを恐れたが、イエスは「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になる」と言った。

という話です。

ここで興味深いフレーズが出てきます。
それは、「人間をとる漁師」というフレーズです。

<聖書にある比喩は「人間」に関するものだ>

聖書は比喩で書かれていると言いましたが、聖書は人間を救うために神様が書かれたものなので、ほとんど対象は人間です。

では、聖書で「魚」という比喩が使われている箇所を見てみましょう。

ハバクク書1章14節
「あなたは人を海の魚のようにし、治める者のない這う虫のようにされる。」

次に、イエスキリストがペテロに「海に行って、つり針をたれなさい。」と言いましたが、この海は何を表しているでしょうか?

アモス書8章12節
「彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。」

聖書を詳しくみてみると、「人」を「魚」だと喩えている箇所があり、
また、「世の中・世間」を「海」と喩えている箇所があります。

私たちも「世の荒波」とか言ったりするのと似ていますね。

<ペテロと魚の話の真相>

ここまでの話を統括して読んでみると、「海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。」という話は、

海=世の中
魚=人

となり、

そして、釣り針については、
海にいる魚を釣るためには釣り針が必要なように、
世の中にいる人間を釣る(人の心を掴む)ためのものでありイエスキリストとペテロが持っているもの、すなわち神の言葉(以下、御言葉)を指します。

海=世の中
魚=人
釣り針=神の言葉(御言葉)

を喩えているものだと分かれば、
今回の話は、奇跡の話ではなく、
「町に出ていって、全ての人の人生の問題を解く神の御言葉を伝えて、受け取るようになる神への献金(感謝の真心)を税金として払いなさい」
という話
だということがわかるようになります。

このように喩えで使われている比喩を正確に解いてみると、聖書に書かれていることがおとぎ話・ファンタジーではないことが分かります。

今日は一旦ここまでとし、次回の記事で「ペテロと魚」の話を通して学ぶことができる教訓について書こうと思います。

長文を最後まで読んでくださりありがとうございました。


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