見出し画像

回想録#1 鳥山明さん


一目惚れしてしまった。

マグカップに。
おおっ、これはヨッシャマンカップではないか!と。
冷静によく見てみれば、ただ「Y」の字が入っているだけである。
それほどまでに私が愛するキャラクター「ヨッシャマン」の生みの親と言っても過言ではない、鳥山明の訃報が届いた。
弔いと感謝の記事を書きたいと思った。

私の両親は、ダイアモンドのように頭の固い人達だった。
ダイアモンドヘッド達の定めた法典の中に
「マンガを読むべからず」というのがあった。
理由は、漫画を読むとバカになる、との事だった。
今ならば、その考えこそがバカらしいと思われるだろうが、当時はそういう風潮が確かにあったのである。
私は当時小学2年生で、小2といえば、
「マンガをちょうだい……お願いよ……マンガをちょうだい……」
路地裏で売人の足元にすがるくらいのマンガジャンキーがいくらでもいた。
かくいう私も、親が買ってくれないのだからと従兄弟のお兄ちゃんに隠れて借りたりした。
借り物ではあるが、私が初めて不法所持したのが
「Dr.スランプ」だった。(多分、3巻)
それまで見たマンガは、学校の図書室にもあるような勉強系のマンガであり、コミックス形態も初めてだった。
うぶな小学生男子が虜になるまでに必要な時間はせいぜい5分といったところか。
何度読み直しただろう。
恋に近しい感情を抱く少年は、なんとかこのマンガを自分の物にできないかと考える。しかし、Dr.スランプは借り物であり、ダイアモンドヘッド達の目を欺くのも限界がある。そこで私は、贋作を作ることにした。
コミック1巻分をまるごとノートに書き写そうとしたわけであるが、もちろんこれは挫折した。せいぜい2ページくらいだったと思う。
模写は無理だったが、私は閃いたのだ。
「漫画を買ってもらえないなら、自分で書けばいい」
これが私の創作の原点だった。
歴史にもしはないと言うが、もしダイアモンドヘッドルールがなかったら、私はただの読者で終っていたのではないだろうか?

小学3年生になると、週刊誌の存在を知る。
当時は100円台だった。お小遣いで買える値段。
私のホームグラウンドは「少年ジャンプ」で、Dr.スランプから「ドラゴンボール」への移行もリアルタイムで経験している。
「ヨッシャマン」の誕生もちょうど同時期であったと記憶している。

Dr.スランプもヒットしたが、ドラゴンボールの快進撃はものすごかった。
日本中の少年達を熱狂させるだけに留まらず、世界へとその龍は翔んでいった。
私の中国武術の師匠の友人は、あちこち海外を回って武術の指導をされているのだが、言葉の通じない国でも、
「か~め~は~め~」と言うと、みんなで
「はーーー!」と返してくるらしい。
私もかめはめ波をうちたいばかりに、東京の気功道場に1年も通ったこともある。
そして、海外の人が「ドラゴンボール」に感じるのがサムライスピリットだという。私たちからすると、どこが?と思うのだが、勧善懲悪ではなく、敵も仲間になるというストーリーに日本人の精神性の高さを見るらしい。とんでもないものを出荷してくれたものである。

鳥山明先生の功績については、私が述べるまでもない。
ただ、私の人生からはどうしても彼のマンガを切り離すことができず、その感謝を伝えたいのだ。

おそらく今ごろは「精神と時の部屋」あたりでのんびりされているのだろう。
次はどこで何を描いてくれるのだろうか。

ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?