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彼女に振られたので山暮らししようかと思う。#11


ヨッシャマンVS過去の遺産

「赤毛のアン」が好きだった。
映画もそうだし、小説も何度も読み返した。
カナダのプリンスエドワード島に行って、グリーンゲイブルスも観てみたかった。美しくて素敵な物語だ。
赤毛の主人公、アン・シャーリーは孤児として描かれている。
が、生き別れた兄弟がいたという説がある。
彼の名は、ダン・シャーリー。
空想好きなアンとは違って、ダンには現実的で実用的な能力があった。それは、比類なき「片付け」力である。
このダン・シャーリーこそが、今日使われている「断捨離」という言葉の語源になった人物だ。

もちろんウソだけど。

くだらない文章で読者の貴重な時間をわずかなりとも消費させてしまうことには、私だって罪悪感を感じないわけではない。しかし、これは一種の病気なので大目にみてもらいたい。

というわけで、今日は断捨離について書こうと思う。

山暮らし計画を遂行すべく持ち家を売りに出し、山林物件探しも順調である。
順調でないのは、引っ越しの準備だ。
何しろ、ただの引っ越しではない。山への引っ越しである。車でどこまで入っていけるのかも未知数だし、そもそも平地があるとも限らない。
山道を荷物担いでえっちらおっちら引っ越しになる可能性も十分にある。
なので、とにかく出来るだけ荷物を少なくしたいのだ。

バトルロイヤルの常套手段。それは、強そうなヤツから潰していく。
そのセオリーでいくならば、重いもの、でかいものから片付けていくことになる。
古いタンスに使っていない食器棚、落書きだらけのちゃぶ台、20年以上使っているギシギシベッド。ひんまがっている物干し竿に、骨董品みたいなデスクトップのパソコンと机、ネコの爪研ぎ専用と化しているソファー。色々ある。

デカものがあらかた姿を消したあとは、中堅に移る。
しまい込んである物やほとんど使っていない家電、無駄にコレクションしたガラクタ、大量の本……。

わりとミニマムに暮らしていたつもりではあったのだが、こんなにも不要な物にあふれていたのかと驚く。まるで、どこからか湧いてきているみたいに思えた。

とにかく捨てまくった。
しかし、断捨離の真の恐ろしさはここからである。
生活用品であれば、捨てるのはそれほど躊躇しない。「あとで使うかも……」という悪魔のささやきみたいなものはよく浮かんではくるけれど、「必要になったらまた買えばいい」と思えばなんとか乗り越えられる。
損をする、ということに対して私たちは思っている以上に恐怖を感じる。それはもう本能的なものなので、「捨てることは損じゃないんだよ~」と、家出少女をだまくらかす遊び人みたいにやさしく言い聞かせるしかないと思う。

問題は、「思い出の品」である。
これが、断捨離最大の敵と言っていいだろう。

娘達との思い出の品は、ベタであるが写真に撮っておくことで大体は対処できた。これまでバレンタインに娘からもらったチョコレートの箱も全部とっておいたのだけど、写真一枚に全部収まった。もちろん、絶対に捨てられない物も当然あって、それは山にも持っていくつもりでいる。

はぁ。
ため息が出る。
最高難度の「彼女との思い出の品」がいまだに片付けきれない。
まず第一に、量が多い。
何しろ、「ヨッシャマンの家の冷蔵庫はスカスカでもったいないよね」と言って、私の家のをセカンド冷蔵庫として使うような人で、我が家を物置小屋だと思っているようなフシもあった。
あきらかに彼女個人の物はお別れした時にお返ししたのだけれど、プレゼントしてもらったものや二人で使う用に買った物、お出かけした時のおみやげなどそこら中にある。
その一つ一つに、忘れたいけど忘れたくない記憶がコンロの焦げ付きみたいにへばりついていて切り離せない。
1つの物を捨てるのに、ふんぎりがつくまで数日かかったりもする……。

「あれ、捨てちゃったんだ……」って言われたら悲しいし、
「まだ持っていてくれたんだね」って言われたら嬉しいし……。

いや、もちろん分かっている。アホだなぁと思う。もう会うことなんてないのに。

断捨離はおそろしいものだ。
過去と自分に真っ向から対峙できる勇者のみが勝つことができる。きっと。

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