「利己と利他、について。」: ほぼ日日(にちにち)コラム2
おはようございます。
よたろーです。
今は2024年になってほやほやですが、そんな中で被災された皆さまのご安全を心よりお祈りいたします。
お正月早々ということで今後も毎年イヤな思い出とともにお正月をお迎えになられる方もいらっしゃるかと思うと心が痛みます。
被災地の皆さまのご無事と一刻も早い生活の復旧を願っております。
記憶に残るというと、逆に記憶に残さんがためというものに執念事業、ではなく、周年事業というのがあります。
iPhoneよ、なぜそんな変換候補が先にでるのだ…
周年といっても1から5、10、20…といろいろあるやけですが、とりわけ大きいのはやはり100周年でしょう。
100年といったら一世紀、ですからね。
今年が2024年ですから100年前といったら1924年。
第二次世界大戦前ですよ!
日本でいったら大正です。
知ってます?
大正。
令和←平成←昭和←大正
ですよ。
そして大正は15年しかなかったので、その前は明治ですよ。
明治の前は江戸時代。
チョンマゲ、士農工商刀狩の時代ですよ!
かなりテキトーなこといってますが、大正時代。
大正だとまだ江戸の空気も引きずっているところも感じられる時代です。
イメージしづらい方、大正時代を舞台にしたこちらの作品だとわかりやすいのでは?
そう。
鬼滅の刃です。
刀振り振り回して、みんな着物着てますけど舞台は大正時代です。
信じられません?
信じられないもなにも、大ヒットしたこちらの映画↓
「無限列車編」ですから。
電車(正確には機関車)走ってますから。
そして絵はありませんが、無限列車編の続編である遊郭編。
こちらもご覧になられた方は思いだしていただきたいのですが、屋根の上とか空からのシーンには無数の電信柱と電線が描かれてます。
どこまで正確な時代考証がなされているかはわかりませんが、雰囲気としてつかんでいただければ。
100年てスゴい変化が生まれる期間ですよね。
100周年というと、2023年暮れの紅白歌合戦でもとりあげられていましたディズニーを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
私もチラリと紅白を観ていて、ビックリしたのが、これ↓
DVD裏の画像を見ると、
なんと!
1937年ですよ。
昭和12年。
第二次世界大戦前です。
そんな昔にこのアニメーションのクオリティ。
ただただ驚きです。
ディズニースゲェ。
ディズニーたしかにスゴいですし、アメリカスゴい、となるのもわかります。
でも日本でも100周年記念というのがありまして…
それが『ゲゲゲの鬼太郎』
え!?
100年!??
と私も思いましたが、公式ページを見ますと、
鬼太郎誕生日100周年、ということではなく原作者の水木しげる先生の生誕100周年ということですね。
そして2023年、去年だった…。
まぁそんなことはいいんです。
いったんですよ、観に。
この『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』を。
子どもだましのアニメかと思いきや、まったくそんなことはなく。
というかまぁ水木しげるさんの漫画を読まれたことがある方ならピンとくるかもしれませんね。
生誕100周年なので要は1923年生まれ。
太平洋戦争開始の1941年には18歳。
(あれ?ウィキペディアだと1922年に…)
1943年、21歳のときに召集されて戦争に行かされています。
そしてそこで左腕をなくす、という強烈な体験をされていまして。
なので水木しげるさんの作品中には軍隊の理不尽を描く様子がたくさん出てきます。
今回の『鬼太郎誕生』でも痛烈な軍国主義への批判が込められていて、考えさせられるストーリーです。
観終わってからいろいろ考えることありまして。
この映画からだけ、ということではなく以前からちょくちょく考えていたことではあるのが、あらためて思いだした、という感じです。
それが、
利己と利他
というものです。
洋の東西を問わず、古今東西、利他の心の大切さを説かれていることは非常に多く感じます。
いまにはじまったことでもない。
宗教的なことは詳しくないので浅学な理解に基づいてなので間違えてたらご容赦ください。
仏教はいっさいの執着を手放すことを大切にしていますし、キリスト教でも慈愛や許すことをうたっていますよね。
近年流行った本だとこんなのも↓
私もまだ買っただけで読んでないのですが…。
そして同テーマのアダム・グラントの動画も有名です。
これオススメ。
いずれも利他の心を大切に、というものです。
でもなんで?
そんな大切なことならみんな普通にやるのでは?
これだけ声高に「ギブしろー」「利他の心を持てー」といわなくちゃいけないのはなぜ?
それは、
人間は本来、利己的な生き物だから
なのではないかと。
そう考えると、利他的に生きていいことあるの?
という疑問にたどりつきます。
べつに利己的に、他人の迷惑や気持ちとか考えず、自分の利益のことだけ考えて生き続けてもいいじゃない。
死んだらそれまで。
だから人にどう思われようが己の道を貫きとおす。
周りにとったら迷惑千万かもしれません。
でも本人にとってはまったく関係ないこと。
イヤなら離れていけばいい。
以上おわり。
なんでしょう。
じゃあなんで利他の心を持って生きる必要があるのか?
先ほど人間は本来利己的といいましたが、おたがいに協力しあってここまで生き延びて発展してきた、というのもまた人間が太古から培ってきた智慧であり、DNAに組み込まれてるといってもいいものだと思います。
協力する背景には利己的な思いからそうする人もいるでしょうし、本当に他人のために、と思う人もいるでしょう。
100パーセント、利他か利己か、という二元論ではもちろんないと思います。
人によっても、また同じ人でも場面や状況に応じてその出かたは変わることもあるでしょう。
現代の資本主義社会では、富を基準とした勝ち負けという側面が強い。
それがゆえに利己的な行動が増えるのかもしれません。
資本主義だけではないですね。
共産主義国家でも同じことなのかもしれません。
富や権力といった支配欲に駆られる。
そしてその欲を極限まで満たそうとせんがために利己的な行動に走る。
それがいきすぎるとバランスが崩れて政権や国家が崩壊したり、経済が崩壊したりする。
そのくりかえしで人類の歴史はできあがっています。
利他的に生きることは、少しでもそういった悲劇を食いとめるため、なのかもしれません。
一人ひとりにできることは限りなく小さい。
だけどみんなで力を合わせれば限りなく大きな力を発揮できる。
それが人間の底力。
それでもやっぱり利己に走ってしまう。
それも本能のなせる技だから。
利己に向かうか利他に向かうかは、死生観が大きく影響しているのかなと。
生死をめぐる哲学は奥が深いらしく、私も詳しいことはぜんぜん知りません。
ただ以前読んだ『「死」とは何か』に、大きく二つの死生観がとりあげられていました。
ひとつめは:
死んだらそこで終わり。
死後の世界もないし、生まれ変わりもない。
そして二つめが:
私はひとつの通過点。
死後の世界や生まれ変わりがある。
そして本の著者のスタンスは前者。
死んだらそこですべて終わり、だったかと。
このふたつの死生観の違いが、利己と利他の違いを生むのかもしれないなと思いました。
つまり、死んだらそこですべて終わり。
という思想に基づくのであれば、生きてるあいだが自分の人生のすべてになるわけですから、他人のことなんて気にすることないですよね。
嫌われようが人に迷惑かけようが、自分が良ければそれでよし。
死んでから地獄で責苦にあうわけじゃない。
家族とか遺族のことも、気にはなるけど死んじゃったら関係ないよね。
だって生まれ変わったりするわけでも、彼らの苦しむ姿を見たり恨みごとを聞かされたりするわけじゃなし。
そういう考え方が成り立つのかなと。
ただもちろん全人類これでいったら滅びてしまうわけで、少しでも利他に向かう人を増やす必要があるわけです。
そこに向かわせる教育のひとつとして、死んでもただ単に現世の人間としての姿での生活が終わるだけで、生き続けるし生まれ変わりもある。
今の世でのおこないに応じて地獄や天国に送られたり、人に生まれ変わったりゴキブリに生まれ変わったりが決まる。
残してきた遺族の様子もわかれば、現世を離れたあとはご先祖さまに怒られることもあるかもしれない。
だからちゃんと利他の心で生きようよ。
どうでしょう?
もちろんどちらが正しいかわかりませんし、これ以外の考え方もあるでしょうし、そもそも私の考えかたも間違ってるのかもしれません。
仮にこの二つがあるとして、どちらが正解かはだれもわからない。
けっきょくどっちの生きかたを選ぶかは、自分次第。
あなたはどう生きたいですか?
それはなぜ?
年のはじめにちょっと考えてみてはいかがでしょうか?
本日もおつきあいありがとうございました。
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