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気がつけば長いこと生きて来ました。アラ還を目前に今までの人生を振り返り、ただただ反省の…

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気がつけば長いこと生きて来ました。アラ還を目前に今までの人生を振り返り、ただただ反省の日々です。

最近の記事

A Day In The Life 〜 生活困窮者とフードロスと何も出来ない自分

休みの日は買い物を兼ねてひたすら歩く。大体家からみなとみらいを抜け横浜駅、というのが定番のコースだ。 コロナの感染がひどくなった昨年の春くらいからだろうか、みなとみらい界隈である男性をよく見かけるようになった。何故目についたかといえば、ゴミ箱をあさって、捨てられた容器の底に残った食べ物を食べたり、飲み物を飲んだりしていたからだ。 正直嫌だな、と思った。そういう行為もだが、何故その男性がそこまでしなくてはならないかを思うと、辛くなり、単純に見たくなかった、と思ったのだ。 多

    • 花粉症と私の長い共存の歴史

      突然鼻がムズムズして、クシュン、クシュンとくしゃみ5連発。ああ、今年もヤツが来たな、と憂鬱になる。同類とは「来たね!」が挨拶代わり。毎年恒例のイベント?だ。 思い起こせば私と花粉症を発症したのは中一の終わり。春先、とにかく鼻水が止まらず近所の耳鼻科へ。「アレルギー性鼻炎」(当時はまだ花粉症という病名が一般的ではなかった)と診断され、ひたすら鼻腔洗浄に通い、なんとなく良くなって行くのをやめたが、単に花粉の時期が過ぎたからで、翌年の春にはまた同じ症状が。花粉症と私との長い付き合

      • なぜ政治家は失言をするのか?について考えてみた

        有名な渡辺淳一著の「鈍感力」を初めて読んだ。なるほど、自分も生きて来た中で共感出来ることがたくさん書かれていた。 だがそれとは別に読み終わった後にふと思ってしまったことがある。 昨今頻繁に「失言」が報道される。立場的に多く取り上げられるのは政治家の方々だ。 そこで思った。なるほど、政治家はある意味鈍感でないと務まらない仕事だ。推しも強くなくてはいけないし、打たれ強くなくてはいけない。一種の「カリスマ性」というのもいわゆる繊細で敏感な人には持てないであろう。 一方で「これを

        • 大晦日に思うこと 〜 noteとの出会い

          自分的に今年最高のトピックのひとつは間違いなくnoteを始めたことだ。小学生の頃から文章を書くのも読むのも大好きで、書くことに関わった仕事をしたいと漠然と思っていたが、今と違って昭和の時代は文章=紙の誌面なので、希望者が多い中当然驚くほど狭き門で、元々単に好きだっただけで「いいなぁ」と思っていた位の私にはとても手の届かぬ世界だった。というか、覚悟がなかったのだけれども。 高校生の頃は友達とロックの同人誌を作って文章を書いたりしていたが、大人になるにつれて文章はすっかり書くもの

        A Day In The Life 〜 生活困窮者とフードロスと何も出来ない自分

          死んだ後のお金の話

          ちょうど一年前、昨年の12月に父方の伯母が95歳で亡くなった。そしてその伯母の四十九日直前に、なんと彼女の息子が突然死(心筋梗塞だったらしい)してしまった。 伯父(伯母の夫)はすでに他界し、2人の息子のうち長男もすでに亡く、伯母はその次男とふたりで暮らしていた。 驚きと悲しみと共に大問題が持ち上がった。法定相続人がいないのだ。 法定相続人、とはいわゆる二親等に当たる関係で亡くなった本人から見て親、兄弟、子供、を指す。亡くなった従兄弟は独身で子供は無く、長男も同様であった。も

          死んだ後のお金の話

          パンダに教えられたこと 〜 いつも笑顔で

          上野動物園の双子のパンダちゃんの体重が10キロを超えたとテレビで映像を流していた。 かわいい。たまらなくかわいい。1頭でも文句なくかわいいのに、2頭でじゃれ合うなんて反則だ。かわいくないはずがない。 しかし私は昔からパンダを見ると思ってしまうことがある。それは 「やっぱり見た目がかわいいと得だな。」 そう、希少価値とはいえ所詮は熊である。大体があんなに小さい赤ちゃんパンダでも爪はしっかり熊の爪をしてる。ヒグマや月の輪グマと同じで、危険を感じると他の動物を襲うこともあると

          パンダに教えられたこと 〜 いつも笑顔で

          犬舌オンナの熱々ごはん

          私は熱々の食べ物が大好きだ。そして熱いのが何よりのご馳走だと思っている。例えば同じお料理でも、ものすごく味がいいけど熱くないものと、味は普通だけど熱々のものなら、なんの迷いもなく後者を選ぶ。熱々をハフハフしながら食べるのが大好きなのだ。それをビールで鎮火するのはもう至福の時だ。そして翌日上顎が火傷で水ぶくれになっていることはしょっちゅうで、むしろそのくらい熱くないと満足しない。だから熱々を期待して出て来たお料理がぬるかった時ほどテンションが下がることはない。 先日3日連続で

          犬舌オンナの熱々ごはん

          雨の日とスタンスミス

          私の今年の大ヒットは、ご存知アディダスのスタンスミスだ。「え?ハイテクスニーカーとかダッドスニーカーみたいなゴツい系が流行の今季になんで今さらスタンスミス?」と思う方も多いことだろう。だが私は発見してしまったのだ。雨の日のスタンスミスがいかに優秀かを。 雨の日の暗い気分を少しでも上げて快適に過ごすため、昔からレインシューズには目がない。雨の日に足元を気にしなくていいのは想像以上にストレスを回避出来るからだ。現在ロング・レインブーツ4足、ショート・レインブーツ1足、レインパン

          雨の日とスタンスミス

          個人的幕末3大イケメン 〜 榎本武揚 武士の魂を持ったイノベーター

          個人的幕末イケメン、ラストは榎本武揚。戊辰戦争で北海道に独立共和国を創ろうと目論みながら敗れ、その後敵であった新政府で能力を発揮することになるという数奇な運命を辿った男だ。 元々は江戸の幕臣の家に生まれ、長崎海軍伝習所に学んだ後オランダに留学する。滞在中、観戦武官としてプロイセン・オーストリア戦線を視察するという経験をし、西洋には例え戦争中であっても秩序を保つための万国共通の法(=国際法)というものが存在することを知る。 帰国後は幕府の軍艦頭並となるが、すぐに大政奉還を迎え

          個人的幕末3大イケメン 〜 榎本武揚 武士の魂を持ったイノベーター

          個人的幕末3大イケメン 〜 中村半次郎 フランス香水と芋侍

          個人的幕末イケメン、2人目は中村半次郎。後の桐野利秋だ。 武士の家に生まれながら鹿児島の農村で極貧の幼少期を過ごすが、やがて潘の下っ端として働くようになり、西郷に出会い、その人物に心酔する。もともと読み書きもろくに出来ず、「芋侍」と馬鹿にされていたが、新選組からも怖れられる程の剣術の腕と勉強熱心さで幕末の志士となり、維新後は日本初の陸軍少将にまで上り詰める。その後は下野した西郷に従って自らも職を辞し、鹿児島に帰り、後にあの西南戦争へと進むことになる。 現存している写真を見て

          個人的幕末3大イケメン 〜 中村半次郎 フランス香水と芋侍

          個人的幕末3大イケメン 〜 高杉晋作 「おもしろきこともなき世をおもしろく」

          幕末ナンバーワンのイケメンといえば、なんと言っても土方歳三だろう。有名な軍服姿の写真を見れば誰もが納得である。私も土方は大好きだが、ここでは個人的趣味で選んだイケメン達について語りたい。 まず長州の高杉晋作。彼は他の幕末に活躍した多くの志士達と少し違い、長州藩譜代の家柄に生まれ、若くから藩主毛利元徳の信頼も厚かったといういわばエリートだった。例えば坂本龍馬などが藩主にお目見えなんて考えられない身分だった中で(西郷どんはちょっと特殊だが)異色と言って良い。 有名な吉田松陰の

          個人的幕末3大イケメン 〜 高杉晋作 「おもしろきこともなき世をおもしろく」

          偉大なる一発屋たち 〜 ONE HIT WONDER

          中1から洋楽の世界にドップリ浸って来た私にとって、音楽はずっと空気に等しい存在だ。もっとも長く深いお付き合い?はQUEENだが、2年前の映画の大ヒットのおかげで一般の方々や若い方々にまでフレディちゃん(勝手にそう呼んでます。)が認識されるようになるなんて、長く生きてると嬉しいこともあるな〜としみじみ感じています。 さてそんな私の音楽人生の中で忘れられないのが、偉大なる一発屋達の存在だ。「一発屋」という呼び方は一あまり良い意味では使われないかもしれないが、あえてここではリスペ

          偉大なる一発屋たち 〜 ONE HIT WONDER

          昭和の思い出 〜 家電その参

          ステイホームの影響で昨年の白物家電の売れ行きがとても良かったとニュースになっていた。ところで「白物家電」という名称の由来は、冷蔵庫や洗濯機が発売当初白かったかららしい。だが私が物心ついた頃の昭和の冷蔵庫は白くなかった。というか、ほぼ全ての家電が色もの・柄ものだった。冷蔵庫も洗濯機もなぜか緑色が多くて、たまにベージュかグレー。洋式便器に至ってはワインレッド大流行の時代があった。(今考えるとなぜあんな落ち着かない色にしたのだろう。) そういえば保温ポットとか炊飯ジャーも鮮やかな

          昭和の思い出 〜 家電その参

          昭和の思い出 〜 家電その弍

          子供の頃一番衝撃を受けた家電は電子レンジだった。なぜならスイッチを入れさえすればドラえもんのごとく自動的にお料理が出て来ると勝手に思いこんでいたからだ。実はそうではないと知った時はかなりがっかりしたのを覚えている。 発売当初の電子レンジはとても高級品で、当時の例にもれず重くてやたら大きかった。電子レンジのある家イコール裕福な家、というイメージさえあったものだ。 さてそんな電子レンジがいよいよ我が家に来た日、家族で試しに何か作ろう、ということになり、生卵を入れてチンしたところ

          昭和の思い出 〜 家電その弍

          昭和の思い出 〜 家電その壱

          昭和ではあるものの、私の子供の頃には今日常的に使われている家電はほとんど存在していた気がする。もちろん形態や機能、普及率は今と雲泥の差なのだが、本当になかったのはビデオレコーダーと携帯電話くらいではないだろうか。 洗濯機も二層式だがどの家庭にもあったし、テレビもあった。でもまだ電話のない家庭は珍しくなく、学校の連絡網に(呼)(←かっこ呼び出し、と読む)いう表記をよく目にした。今の携帯と違って固定電話引くのは金銭的にも結構大変だったのだ。 電話といえば、家に1台しかないので、

          昭和の思い出 〜 家電その壱

          昭和の思い出〜給食

          戦後の学校給食は、貧しい家庭の児童も栄養のある食事を食べれるように、という目的から始まったという。私が小学校に入学した時はすでに牛乳が出されていたが、その前までは脱脂粉乳だった。今はご飯が中心らしいが、私の育った横浜市はご飯の導入が遅く、最後までパンだった。 ところで実は私は給食のせいで登校拒否になりかけた。小学校1年生の時の担任は年配の女の先生で、まだ戦後の食糧難の時代の空気が残っていたのだろう「給食は残してはいけません」と厳しく指導された。 だが子供ながら「甘い煮物に食

          昭和の思い出〜給食