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小説『雑記帳』より。(3話①)

3話 素子のアルバイト①

学校が夏休みに入る直前、私にバイトの話が飛び込んできた。

あまり裕福ではない家庭だから、学費だけでも親に出してもらうのも気が引けていて、私はバイト先を常に探していた。
できれば学費の他の必要経費は自分で賄いたかった。

ただ、平日は大学が忙しく、なかなか時間帯が合わないし、土日のみだとお小遣い程度にしかならない。
希望的には長い休みに集中的にバイトをしたかった。そこへ従妹から入ってきた比較的家からも近いバイト情報は、本当にありがたい話なのだ。

先日鈴木さんにダメ元で、
「ねぇ、バイトのお姉さん一人雇わない?」
と聞いてみた。

「お姉さんって、素子ちゃんのこと?ダメダメ。この狭い店内で、もう一人なんて動きにくいし、カップとか洗ってもらったら落として割りそうな気がするし。」

鈴木さんが笑いを堪えながら言うので、私は頬をプクッと膨らませた。
カップくらい洗えるよーと言うと、
「このカップ、一ついくらだか知ってる?」
と言うので、そういえば常連さんたちが「すごく高価」と言っていたけど本当の価格は知らなかった。

植物柄のちょっとアンティークっぽいデザイン。
後でこっそり常連の女性に聞いたところ、鈴木さんのところのものは一万円以下のカップはないということだった。

「ちょっとそんな度胸ないかも。」
鈴木さんは目を細めて笑っている。カップを割らないまでも、このカウンターで鈴木さんと二人の時間が長かったら、私の心臓がドキドキしすぎて爆発してしまうかもしれない。

私が従妹から入手したアルバイト先は、大手の会社の工場だった。そこの工場敷地にある設計部門の図面や測定データを、デジタル化する仕事だった。
パソコン仕事は全く慣れていないのに、ただ真面目な面だけを買われて働くことになった。(従妹のコネも大きいだろう。)

図面を扱うことも初めてで、昔の紙のデータは触るとボロボロと崩れてしまうようなものもあり、かなり悪戦苦闘することになった。
まして、データの打ち込みなどはブラインドタッチもできない程度のタイピングだからひどいものだった。
時折「大丈夫?」と声をかけてくれる人もいる。
タイピングの練習もするようになったが、実践中の仕事には間に合わない。

それでも、勤務態度は超がつくほど真面目であったので、職場の人たちからはとても可愛がってもらえた。
特に私の席の後ろの女性には妹のように可愛がってもらえた。

「素子ちゃん、お腹空かない?お菓子あげようか。」
「素子ちゃん、休日出勤するの?偉いねー。じゃあ私も一緒に出ようかな。チーズケーキ作ってきてあげようか?」

なんて感じだった。
大きな会社なので社食があるが、お姉さんとは社食で食べるのも一緒、休み時間もいつも一緒で、どこそこの課にはイケメンの男の子がいるとかいないとか話で盛り上がっていた。

ところがそのうち、そのお姉さんがアシスタントしている隣の席の設計士の男性から、おしゃべりが煩いとクレームが来てしまった。
お姉さんは声を出さずに「あちゃー」という顔をしている。

この男性、周囲からは変わり者で扱いづらいという話を聞いていた。若いけど笑ったところも見たことないし、いつも厳つい顔をしていて怖い感じがする。
そういえば、周囲の人たちは無駄に彼には近づかない。
調子に乗って、よりによってこの人に怒られてしまうなんて。

私は下を向いて、
「すみません・・。」
と小さく言ってショボンとしてしまった。自分は怒られても仕方ないが、お姉ちゃんを巻き込んでしまった。

お姉ちゃんはこの会社でずっと働いているわけだから、私が居ることで迷惑になってしまうのなら、もったいないけどこのバイトは続けていけないかもしれない。
何しろ、お姉ちゃんの仕事上のパートナーが怒っているのだ。
そう思うとなおさら落ち込んで、きっと私の周囲は黒いオーラでも出ていそうだったろう。

するとその後、残業時間にお姉ちゃんのその隣の設計士のお兄さんがお菓子を差し出して、
「お姉ちゃんと食べなよ。」
と言ってくれた。

顔はやっぱり全然笑っていないが、意外過ぎて思わず顔をまじまじと見てしまった。
からかっているのか?


「君たちピクニックにきているのか仕事に来ているのか、どっちだ?」
残業時間前の休み時間に、貰ったお菓子を広げてお姉さんと食べていると、例の設計士のお兄さんがからかってきた。
しかもまさかの笑顔だ。
「楽しいよー、一緒に食べようよ。」
と誘うと、そんなお子ちゃまなものは食べない。とか言ってそっぽを向いてしまった。
でも、その一瞬の笑顔は、私の心を掴むのに十分だった。

「ねえねえ、お姉ちゃん(便乗的にそう呼ぶことにしていた)。お兄ちゃん(これも最初名字を知らなかったためにこっそりそう呼んでいた)は本当は見かけによらず優しいんだよね。」

と私が言うと、お姉ちゃんはビックリしたように、
「そうだよ、優しい人だよ。仕事中は難しい顔しているけどね。それは仕事だから。」
と言っていた。確かにその部署の人たちは(どこもそうなのかもしれないが)ヘラヘラして仕事をしている人はいない。

私のデジタル化の仕事は、大きな倉庫いっぱいにあると言われていて、仕事に慣れてきた私に他の部署からも
「そっち終わったら素子さんを貸してください。」
とレンタル要請まで来ていた。
しかし設計の部署の処理量があまりに多いため、私を直接指導してくれた設計部長は、
「こんなに真面目にやってくれる人はなかなか見つからないのだから、他の部署に渡すものか。」
とボソッとつぶやいていた。

確かに耐久性を要求される仕事で、延々と続く先が見えないトンネルのような仕事だったから、辞めていくバイトの人が多かった。
かといって、企業秘密も含むデータもあるので、会社関係者の身内とか繋がりがないとバイトとして雇ってはもらえない。
誰でも良いというわけではないのだ。

夏休み中ほとんどを残業と休日出勤というハードワークをしていた私だが、ある日突然鈴木さんに会いたくなった。
鈴木さんの淹れてくれるカプチーノがどうしても飲みたい。

「ねぇお姉ちゃん。今日普通に仕事時間終わる?」
お姉ちゃんにぜひぜひ鈴木さんのコーヒーを飲んでもらいたかった。私はお姉ちゃんのデスクに顎を乗せて、おねだりポーズをしてみた。
「私の御贔屓の珈琲店があるんだけど一緒に行こうよ。絶対美味しいから。」
お姉ちゃんは卓上カレンダーを目を細めて見てから、
「よし、今日は普通に上がろう!素子ちゃんのおススメに行きたい!」
と言ってくれた。

私はとても嬉しくなってにこにこして、
「えへへ、今日はお姉ちゃんとデート。」
と、隣の席のお兄ちゃんに自慢してしまった。
お兄ちゃんもかなり毎日夜遅くまで仕事をしている。

「え?どこか行くの?これから?飯?」
珍しくお兄ちゃんが身を乗り出してきた。
「美味しい珈琲屋さん。私の御贔屓なんだよ!」
と胸を張って言うと、隣でお姉ちゃんがちょっと焦った顔をしている。
するとお兄ちゃんが
「俺もいく。普通に上がって、俺も珈琲飲みに行く。」
と言い出した。
お姉ちゃんが横で声を出さずにため息をついていた。
「いいじゃん。お兄ちゃん最近フレンドリーだし。」
と私が言うと、お姉ちゃんがウンウンと仕方なさそうに頷いていた。

さて、二人を連れて雑記帳へ訪れると、カウンターは辛うじて三つ空いていた。

「やあ、いらっしゃい。久しぶりだね、素子ちゃん。」

笑顔の鈴木さん。
いいなぁ癒しだなぁと一瞬見とれてしまった。三人でカウンターに座って、
「バイト先のお兄さんとお姉さんなの。」
と鈴木さんに紹介した。
オーダーはお姉ちゃんは私と同じカプチーノで、お兄ちゃんはエスプレッソだった。

「うん、これは美味しい。」

何事も褒めないというお兄ちゃんが、嬉しそうに美味しいとエスプレッソを飲んでいる。
私とお姉ちゃんはその様子を見ながらニンマリと笑った。

「素子ちゃんバイト頑張ってる?元気そうで良かったけど。」

鈴木さんがいつものように柱にもたれつつも、しっかり私の目を見て話す。
私は満面の笑みで鈴木さんに胸を張って言った。
「いつもは残業時間までかかっちゃうんだけど、今日は特別。鈴木さんに会いたくて、定時で帰ってきちゃった。」

鈴木さんはふぅっと息を吐くと、お姉ちゃんに向かって、
「素子ちゃんをよろしくお願いしますね。」
と少し頭を下げた。
お姉ちゃんは慌てたように手をひらひら振って、謙遜するように頭を下げた。
「大丈夫ですよー。素子ちゃんすごく真面目に働いています。」

すると、お兄ちゃんが横で、
「真面目にお菓子食べながら働いています。」
と、ククッと笑って言った。

お兄ちゃんの表情はランプの光だけなので全然分からないのだが、その口調から上機嫌だということが分かる。
鈴木さんの珈琲が大当たりだったということか?

雑記帳を出ると、駅に向かうお姉ちゃんを、お兄ちゃんと一緒に歩いて見送ることにした。
駅へ向かいながら話していて、お兄ちゃんの一人暮らしのアパートが雑記帳の近くだということを初めて知った。
私もお姉ちゃんもビックリなことだった。

「おー。だから駅まで送ってやるよ。」

(お姉ちゃんはわざわざ見送らなくても)と小さい声で言いながらも駅の改札まで三人一緒におしゃべりしながら歩いた。
お姉ちゃんといる時間は、仕事でもプライベートでも楽しい。明るいオーラでいっぱいだ。
駅の改札でお姉ちゃんに手を振り、私とお兄ちゃんは帰路についた。

お姉ちゃんがいて、機嫌がいいお兄ちゃんがいて、鈴木さんに会えて、なんて満点な夜なのだろう。
私は夜風を胸いっぱいに吸い込んで深呼吸した。幸せをもっと吸い込むかのように。

「コーヒーは本当に美味しかったよ。よくお前があんな店を知っているな。」
お兄ちゃんがそう言うと(たぶん褒めてくれたみたいで)嬉しくなった。

「実は、お兄ちゃんも珈琲淹れるの上手いんだぞ。本当だぞ。今度飲みにおいで。近いんだし。」

機嫌の良さの延長なのか、お兄ちゃんが今度私に珈琲を淹れてくれるという。
素直に嬉しくてハッキリと頷いておいた。
「うん。」
お兄ちゃんは一人暮らしだから、もちろん一人では行かないつもりだ。

(3話目の②へ続く)

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