『唯一愛した女性③』 -別れ/未来編‐
世紀末。高校一年生の秋。
僕は人生で初めて彼女と付き合うという関係になったが、それはその以前と特に何も変わらなかった。相変わらず二人はジャスコに行っては安いソフトクリームを買い、大好きな松本大洋の漫画のことや、数学や物理のことを話した。
「話した」と言っても、僕に無いものを彼女が与えてくれる、というある意味で一方的な矢印のものだった。
松本大洋の作品の数々を教えてくれたのは彼女だったし、テスト前に数学や物理を教えてくれたのも彼女。彼女は頭がよかったのでそれ以外の教科もできたし、群れるようなタイプではなかったから、ひとりにしても全然平気そうだった。甘えられることも、何かが欲しいとか、何かをして欲しいとか。そんなことを言われることも一切なかったように思う。
次第に僕は彼女に申し訳なさが生まれてきた。いつもしてもらっている罪悪感。
そして何より僕には最も申し訳ないことがあった。
そう。燻り続ける”男性への興味”である。
彼女は尊敬すべき人であったけれど、一ヶ月二ヶ月たっても僕らの関係は変わらず、詰まる所、”進展”がなかった。
手は繋いだ。けどそれは僕にとって違和感のあることだった。
パッツンの前髪の下にある大きな二つの目で僕を見られると、地元のジャスコで見つめ合ってること自体が可笑しく思えてきて、すぐに目をそらしたくなったし、手を繋ぐのもコソコソ隠れた場所のみで、それ以外は「人目が気になるから…」などと言い、僕はできるだけその手を避けた。
彼女は直接は言わなかったが、その大きな目の向こうに、僕とのハグやその先を望んでいたように想う。
皮肉にも彼女が貸してくれた『鉄コン筋クリート』という漫画は前衛的な作品であって、「セックス」という言葉や、女性の乳首や、子供を孕んだシーンや、暴力・殺人など、僕が今まで読んできたドラえもんやクレヨンしんちゃんにはないシーンが遠慮なく堂々と広がっていた。それは僕に『大人の世界』を意識させた。
『彼女も同じ漫画を読んでいる…
ということは、彼女もこうした”事象”を知っている…
むしろ彼女の方が賢い人だから、僕なんかよりもずっと性的な事象を
少なくとも”知識”としてだけでも知っているかもれないし、
もし近い未来、彼女が僕にそれを望んだなら………』
そう考えれば考えるほど、自分がそれに応えられないという、とてつもない恐怖感に苛まれた。
彼女はノストラダムスなんて信じていなくて、過去と今と未来をきちんと線上に生きている人だったから、僕との将来を描いていてもまったくおかしくはない聡明な女性だった。
僕は正直、彼女とキスをしたいと思わなかった。してもよかったが、したくなかった。一度キスをしてしまえばそれはトリガーを引くような行為であって、その先に何か汚い、僕が望んでいないことが待っているような気がしたから。
その気持ち自体が彼女に対して大変無礼なことだった。
当時の僕は世紀末の世界の終わりを待っているだけの意志のない高校生。どうでもよかった。でも、”彼女”ができ、その彼女を目の前にしたときに、明らかに僕の体は彼女の体を怯んでいた。
もしキスをしてしまえば、その先は”鉄コン筋”にあるような大人の世界の”光と闇”が僕に迫ってくる。
キス。愛撫。セックス。孕む・・・
「それがお前の望む世界か?」
『鉄コン筋』の登場人物達が、僕に語り掛けてくるようだった。
今まさにそれが迫ってきている。怖い。
彼女がそれを望んだとしても、僕はそれを望まない世界。
「臆病者。」
やめてくれ。ほっといてくれ。
彼女といる時間は心から楽しかったし、彼女の脳味噌を少しでも垣間見えた時は発見ばかりでおもしろかった。だが、当時の僕の”目線”の先は、彼女の大きなふたつの目よりも、すでにサッカー部や野球部の引き締まった肉体に向いていた。
僕は彼女ではなく、ここにない”彼”を抱きしめてみたかった。
結果、僕らはは3か月という短命で別れた。
厳密には、彼女が高校のプログラムでオーストラリアに短期留学に行くと言い、僕たちの関係は自然消滅していった。
当時の主な通信手段は電話かショートメッセージであり、高校生が自分のEメールアドレスを持つような時代でもなかったし、彼女はオーストラリアに行くと言った直後、すぐに携帯電話を解約し、連絡先も消滅した。
これらはすべて僕の弁明であり、「僕が彼女との未来を描けなかった」…それだけがこの別れの表向きな原因だろう。
ただひとつ僕が変われたことは、ひとりで電車に乗り、ひとりで街中の大型書店に行き、ひとりで松本大洋の新作を探し求めるようになったことだけ。
彼女が教えてくれたこと。
===
2000年。
地球は滅びなかった。隕石も落ちてこなかった。僕は学年末試験を受け、文系コースへと進んだ。
「物理も数学も苦手だし、今は文系に進んで、大学は潰しの利く法学部か経済学部に行けばいい」と思っていた。やはり僕には明確な意志はなかった。
彼女はオーストラリアから帰ってきて、宣言していた通り理系コースに進んだようだ。相変わらず遠く離れた教室。彼女はもう、ひとりで僕の前に現れることは二度となかったし、廊下ですれ違っても会話を交わすことはなかった。
僕はといえば、彼女と別れてからの残りの高校生活は散々だった。
元々フェミニンな雰囲気だった僕は男子達に「オカマ」「きしょい」とののしられ、虐められ、時に体育の時にボールをぶつけられ呼吸困難になったりもした。女子は助けてくれたけど、男子は誰も助けてくれなかった。それがまた男子の嫉妬を買い、僕はまた虐められた。
教師が「エイズは同性愛の方に多い病気です」と啓蒙すればするほど、僕はその病名に苛まれた。
そういう時代だった。
不幸中の幸いといえば『過去に彼女がいた』という事実だけで僕に”完全なる”オカマのレッテルを張られることはなかったことだが、いつも男子からは「本当に女が好きなんやんな?」と質問攻めに合い、僕は「はい、そうです」と嘘をつき続けた。2年間も。
もし仮にそこで「僕は男性が好きです」と答えたなら、僕は職員会議にかけられ、両親は呼び出され、全校生徒の前で「同性愛を差別するのはやめましょう」と吊し上げられ、そしてその目線がすべて僕に向かっただろう。そんなこと、想像するだけで吐き気がする。
死んだほうがマシなのに、隕石は全然落ちてこない。
もう2001年になる。
残酷なことに、被害は彼女に及んだ。
陰でいろんな人が彼女に対して僕について詮索し「”あの人”本当に女が好きだったの?ドコまで”やった”の?」と聞いていたらしい。本当に下品な奴らだと思ったが、当時の僕は何も力のない干からびた蛙みたいな奴だったから何もできなかった。
僕のことは悪く言ってもいい。虐められても構わない。でも、僕の尊敬した女性を虐げることだけは心から許せなかった。でもそれは確実に起きていた。だから、僕は自分の出た”蛙高校”については、今もいい思い出が残っていない。
ちゃんと僕が早くに自分の”闇”に向き合っていれば、”光”が訪れていたかもしれない。結果として、僕の中にある闇に彼女を引きずり込んでしまっただけだった。全ては僕が生んでしまった偽りの世界。それは僕が自ら作り上げてしまった世界。誰のせいでもない。僕自身の過ち。
彼女は僕を避けたというか”真実”を知りたくなかったのかもしれない。真相はわからない。今でも、当時の友人らのことはどうでもいいけど、時々、彼女を思うと申し訳なさで心が痛む。それだけ好きだったし、何より尊敬していたし、20年経った今でもそれは変わらない。
「もう女性を好きになることはないんですか?」
と今でも聞かれるけど、そんなこと正直わからない。明日になって、僕を魅了してくれる女性が目の前に突然現れたら、人生は大きく変わるだろう。
自分を偽りさえしなければ、誰しもがそんな可能性を持っていると、僕は信じている。
結局、世界は滅びなかったし、2000年も、2001年も、その先も、僕は生き残った。
彼女という”点”は僕の人生においてたった数か月のものだったかもしれないけど、その点の線上の今、僕は偽りを嫌い、正直に生きている。
僕はひとりの女性を傷つけてしまったからこそ、僕を好いてくれる他の全ての女性には、できる限りの敬意を払いたい。
『僕はあなたと付き合うことはできませんが、僕はあなたのことが大好きです。』それこそがカミングアウトというものだ。
自分に嘘をつくことは、他人に嘘をつくことよりも、憎い。
どうせ隕石はなかなか落ちてこないんだから、自分に正直に生きていこうと心に決めたのは、奇しくも新世紀の始まりだった。
‐完‐
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