見出し画像

「知っている」ことの弊害

 日々、人間は色々なことを学習することができます。

 知っていることは増えていきますが、もちろん忘れることも出てきます。どうしても覚えたいこととか、いつも使う知識は、繰り返し使うことで定着していきます。

 

 また、技術の発展によって、今では情報をいつでもどこでも得ることができる時代になりました。ググる、インスタ、ツイッターなどのSNSを見る、ユーチューブを見るなど、様々なプラットフォームで情報の獲得が可能になっています。

 そんな時代ですから、正しい情報を見極める力、すなわち情報リテラシーが求められます。情報リテラシーって、聞こえは難しいですが、実際は、ちゃんと自分の価値観とかモラルなどに合わせて、情報を使いこなすということだけです。そして、自分のリテラシーは、ある程度経験しながら得られるものでもあります。

 

 しかし、今では情報が多すぎて、今や「知っている」ことはほとんど価値を持っていません。「これがこれで、あれがあれ」と覚えている人は、一つの問いに対して答えることはできても、その知識を応用することはできません。その一問一答的な知識は、グーグルがもう補ってくれています。

 でも、まだ知っていることが重視される社会的な意識があると思います。少なくなってきたといっても、まだ依然として知識を求めるコミュニティは存在するでしょう。特にバラエティでは、いまだにクイズ番組は定番ではないでしょうか。

 

 さて、知っていることは、人にある程度満足感を与えるものでもあります。人が知らないことを知っていて、それを教えるということは、高い満足感を感じる行為です。

 しかし、その「知っている」という事実だけで、驕っている人がたくさんいます。大事なのは、その知識を現実世界で活用し、その知識をもって何か社会問題を解決できることです。

 なので、もし周りに「知っていること」を自慢してくる人がいたら、「こいつはAIに消されるのかなぁ」と思いながら、「じゃあ、それは世界でどういう意味があって、どう活かされるの?」などと質問してみるといいかもしれません。

  そして、自分自身が「知識人」にならないよう、普段から得る情報を噛み砕き、自分が良く生きるための道具にしなければいけない。

 そんな、時代の流れが来ています。


それでは!

 

エンジニアリングとコーヒーをこよなく愛する新米エンジニア 夢は、「世代を超えて、それぞれの幸せを追求できる社会を創造する」こと エンジニアだけどコーヒーを上手に淹れます。 頂いたサポートは、より良いnoteの記事を生み出すために使っていきます。